島田紳助
[Wikipedia|▼Menu]

.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}島田(しまだ) 紳助(しんすけ)
本名長谷川 公彦
(はせがわ きみひこ)
[1]
別名義カシアス島田
生年月日 (1956-03-24) 1956年3月24日(68歳)
出身地京都府京都市南区唐橋
血液型AB型
身長170 cm
言語日本語
最終学歴京都学園大学
(現・京都先端科学大学中退
師匠島田洋之介・今喜多代
コンビ名紳助・竜介1977年 - 1985年
相方松本竜介(コンビ時代)
芸風ボケ漫才師時代)
立ち位置右(漫才師時代)
事務所吉本興業(2011年まで)
活動時期1974年 - 2011年
同期明石家さんま
オール巨人
桂小枝
過去の代表番組オレたちひょうきん族
サンデープロジェクト
CLUB紳助
新伍&紳助のあぶない話
オールスター感謝祭
紳助の人間マンダラ
開運!なんでも鑑定団
クイズ!紳助くん
松本紳助
嗚呼!バラ色の珍生!!
行列のできる法律相談所
クイズ!ヘキサゴンII
ほか
作品映画風、スローダウン
他の活動ディンプス相談役(過去)
京都市特別観光大使(過去)
弟子島田まさし ほか
受賞歴


1984年 花月大賞 マンスリーよしもと賞

1991年 日本映画批評家大賞 新人賞

2009年2010年「ORICON NEWS」好きな司会者ランキング 第1位

テンプレートを表示

島田 紳助(しまだ しんすけ、1956年昭和31年〉3月24日[2] - )は、日本の元お笑いタレント漫才師司会者歌手俳優作詞家プロデューサー。本名は長谷川 公彦(はせがわ きみひこ)[1]京都府京都市南区出身。
概要

1977年に漫才コンビ「島田紳助・松本竜介」を結成。1985年の解散後は芸能界を引退する2011年まで数多くの番組で総合司会、プロデューサーとして活躍した。2011年8月23日に暴力団関係者との交際の発覚を理由に芸能界を引退した[3]1974年から2011年の芸能界引退時まで吉本興業(よしもとクリエイティブ・エージェンシー)に所属した。
略歴
芸能界入りまで

父親が国鉄職員(南満州鉄道の職員歴もある)の家庭に生まれ育つ。自らの著書『いつも心に紳助を』では、「鳩のように真面目で温厚な性格で、同じ時間に出社して、同じ時間に帰ってきて、同じ時間に寝る毎日だった。また自分が警察に補導されても『話し合いで解決できる』と言って一度も激怒しなかった」と振り返っている。

小学3年生の時から家庭教師が雇われるなど、勉学に勤しむ家庭環境だったが、大谷高校時代は全く学校に馴染めずに中学・高校は不良として過ごしていた。その後京都学園大学経済学部に進学したが、入学試験が面接だけであり、ここに4年間通っても得るものは少ないと考え、親が入学金を支払った直後に漫才師を目指す事になり芸能界に身を置くために中退した。
芸能界入りから漫才ブームへ

高校時代にテレビでB&B(当時は島田洋七上方よしおのコンビ)の漫才を見て衝撃を受け、漫才師になる事を志し、1974年に洋七と同門になるため島田洋之介・今喜多代に弟子入りし内弟子となる。その後しばらくは洋七の付き人になる一方で、同期の明石家さんまと営業活動を行なったり、しばらく相方を変えながら漫才活動を行うがどれも上手くいかず、さんまから紹介された劇場進行係のスタッフ・松本竜介1977年に「紳助・竜介」を結成。紳助は徹底的に過去の漫才を研究し、若い世代にターゲットを絞った「ツッパリ漫才」を考案。以降、1980年からの漫才ブームの到来により一気に全国ネットのスターダムにのし上がった。1980年に結婚。詳細は「島田紳助・松本竜介」を参照

1980年代前半は1981年井筒和幸が監督した映画「ガキ帝国」にコンビとして主演。その一方で漫才ブームが次第に沈静化する中、「オレたちひょうきん族」のレギュラー出演やクイズ番組のパネラーなど個人でのタレント活動も多くなり、1985年5月に紳助・竜介は解散した。

自らの趣味である音楽活動などを行う一方で、1985年には「鈴鹿8時間耐久ロードレース」への参戦を目的としてチーム・シンスケを結成した。相当な熱の入れようで、その模様は小説として「風よ、鈴鹿へ」を発表したり、自身司会のトーク番組でもある「CLUB紳助」(朝日放送)などでも度々放送された。さらに前述の「風よ、鈴鹿へ」を元に映画製作を企画し、1991年に自ら脚本および監督として「風、スローダウン」を制作した。レーシング活動は1995年まで約10年ほど活動している。
売れっ子司会者として

1980年代後半も吉本興業の東京の本格的進出の足掛かりとして明石家さんまと共にピンでのタレント活動で多忙を極めるが、吉本の東京支社長であった木村政雄のアイデアで、さんまとの差別化を図る目的で、1989年4月に放送を開始した政治討論番組『サンデープロジェクト』(テレビ朝日)の総合司会に抜擢[4]。自分のジャンル外として、当初は固辞していたが、その後2004年まで15年間にわたって総合司会を続けた。特に当時、同番組に出演することが多かった自民党内でも異端的な政治家であった小泉純一郎については自らのコラムでたびたび好意的に言及したり、自らのトーク番組にゲストで招いたりしていた。そのため小泉が自民党の総裁選に出馬した際や自らの公約である郵政民営化については期待を込めていずれも支持した。但し、2007年7月第21回参議院議員通常選挙では、「今の日本には強力な保守二大政党制が必要」「民主党が政権を取ったときは自民党を応援する」と発言し、大阪府選挙区民主党から出馬していた梅村聡の応援演説に立った。
1990年代

その間も売れっ子司会者として1990年代は『歌のトップテン』・『EXテレビ』火曜日・『嗚呼!バラ色の珍生!!』(いずれも日本テレビ系)、『新伍&紳助のあぶない話』(関西テレビ・フジテレビ系)、『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京系)、また関西ローカル番組として『クイズ!紳助くん』(朝日放送)『紳助の人間マンダラ』(関西テレビ)など数々の冠番組および人気番組の司会を担当した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:243 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef