島田洋七
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この項目では、漫才師について説明しています。国際政治学者については「島田洋一」をご覧ください。

島田 洋七
本名徳永 昭広(とくなが あきひろ)
別名義島田洋一(旧芸名)[1]
生年月日 (1950-02-10) 1950年2月10日(74歳)[1]
出身地広島市中区白島九軒町
血液型O型
身長164cm
言語日本語
方言佐賀弁広島弁関西弁[2]
最終学歴広島工業大学[1][3]
師匠島田洋之介・今喜多代
コンビ名B&B
相方島田洋八
芸風漫才(ボケ)
立ち位置右
事務所吉本興業→個人事務所
活動時期1972年 -
同期ビートたけし笑福亭鶴瓶志村けん
作品著書 『佐賀のがばいばあちゃん
他の活動タレント作家
配偶者一般女性[4]
弟子かねきよ勝則
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島田 洋七(しまだ ようしち、1950年昭和25年〉2月10日 - )は、日本漫才師タレント作家。漫才コンビB&Bのひとり。本名:徳永 昭広(とくなが あきひろ)[1]

広島県広島市中区白島九軒町出身[5][6][7]基町生まれ[8])、佐賀県佐賀市在住。島田オフィス。
人物

1980年代、漫才ブームのパイオニアとなり[9][3][10][11][12][13][14]、月収1億円の時代から、人気急降下、そして2000年代のベストセラー作家と、ジェットコースターの様な激動の人生を歩むお笑い芸人である[15][16][17]。その上がり下がりの人生を「シーソーか」と茶化したビートたけしの親友としても知られる[18][19][20][21][22][23]。下の名前の読みは「ようひち」との表記説が多く言われているが、本人にいわく「どっちでもいいが分かりやすい『ようしち』が良い」との事(関西弁では質や七を「しち」ではなく、「ひち」と読むためである。逆にビートたけしが使用する江戸言葉では、「おひたし」を「おしたし」というように、「ひ」を「し」と呼ぶ傾向がある)。
来歴
広島/佐賀

1950年広島市生まれ[24][25]。父親は疎開していた佐賀から広島市への原子爆弾投下一週間後の広島に戻り、家族を探して爆心地を歩き回り入市被爆した[26][27]。昭広(洋七の本名)が生まれた頃は病床にあり昭広が2歳のとき原爆症で亡くなる[7][13]。家族は母・兄・昭広の三人。

広島市立幟町小学校1年生6歳の頃[8]佐賀の祖母に預けられ、中学を卒業するまでの8年間の体験が『佐賀のがばいばあちゃん』として後に出版されベストセラーとなり、映画化・ドラマ化された[28]

佐賀市立赤松小学校、佐賀市立城南中学校と進むが、母親への思慕が募り、また野球がうまかったこともあり、1965年春、高校野球の名門・広陵高校野球推薦で入学[11][29]、故郷広島に戻る[13][30]。のちに洋七は新人のころ、島田紳助明石家さんまら、芸人仲間に「広陵高校の野球部出身で、甲子園にセカンドで出た」と言いふらしていたため、皆これを信じていたが、後にウソが発覚した[31]。広陵入学から大阪に行くまでの経歴は、野球特待生として推薦入学したが、練習中に打球が左腕を直撃して肘を痛め、野球をあきらめた[32]、野球部には一年生の夏まで在籍した[33]、一年以上たっても患部が治らないまま、二年のとき退部したなどと話している[11][32]河井昭司が広陵の同期[32][34]広商山本和行福山電波村田兆治尾道商大田垣耕造らが同学年にあたる。昭広が一年時の野球部監督は森岡栄司で、名将三原新二郎監督就任が1966年[35]。広陵は昭広三年時の1967年夏甲子園で、サウスポー宇根洋介、河井らを擁して準優勝(決勝1-7習志野[36]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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