島清興
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例島 清興 / 島 左近
太平記英雄伝廿五:品之左近朝行(=島左近)落合芳幾
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕天文9年5月5日1540年6月9日
死没慶長5年9月15日1600年10月21日)?
別名左近(通称)、勝猛、友之、清胤、昌仲
戒名妙法院殿島左近源友之大神儀
墓所立本寺教法院京都市上京区
三笠霊苑東大寺墓地(奈良市
木川墓地(大阪市淀川区
浄土寺島村家墓地(岩手県陸前高田市
長崎県対馬市美津島町島山
主君筒井順慶定次豊臣秀長秀保石田三成
氏族島氏(嶋氏)
父母父:島豊前守(島清国?)[1]
茶々北庵法印の娘)
信勝、友勝、清正、娘(小野木重勝正室)、珠(柳生利厳室)
テンプレートを表示
左近が用いたという
「丸に三つ柏」紋

島 清興(嶋 清興、しま きよおき)は、戦国時代から安土桃山時代武将筒井氏石田三成の家臣。通称は左近で、一般には島 左近(しま さこん)の名で広く知られる。実名は勝猛(かつたけ)などの俗称が広まってはいるが、正しくは清興である[注釈 1]。なお、本項目では特に断りが無い限り「左近」と記す。

三成に三顧の礼をもって迎えられ破格の高禄を食む側近として仕え、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われるほどの逸材だった(『古今武家盛衰記』)[3]

娘の珠は柳生利厳の継室となっており、剣豪として名高い柳生厳包は左近の外孫にあたる[4]
生涯
出自

左近の出身地について、対馬国とする説、近江国とする説などがあるが、大和国出身との説が妥当とみられる[5]

島氏(嶋氏)は今の奈良県生駒郡平群町周辺の在地領主で、椿井城・西宮城を本拠にしていたという[6]。平群町の安養寺には「天文18年9月15日 嶋佐近頭内儀」と記された位牌があり、左近の母のものであると考えられる[7]。『和州諸将軍伝』などの軍記類では、島氏の本姓藤原姓とされる[8]

永禄10年(1567年)6月21日には、平群嶋城(西宮城か)に「庄屋」が入り、継母や継母の子ら合わせて9人を殺害し、父・豊前守は脱出することができたという事件が起きたが(『多聞院日記』[9])、この「庄屋」が左近である可能性がある[8]

天正5年(1577年)4月22日、左近は春日大社灯籠一基を寄進している[10]。そこには「春日社奉寄進嶋左近丞清興」と刻まれており[10]、これが左近の確実な初見となる[11]。また天正7年(1579年)には細井戸・南郷氏らと春日大社の若宮祭の願主人を務めている(『多聞院日記』)。
筒井氏・豊臣氏時代

天文19年(1550年)に筒井順昭が死去した際、既に筒井家の重臣となっていた左近は、わずか2歳で跡を継いだ順慶を盛り立てたとされ、また松倉重信(右近)とともに「右近左近」と称されたといわれる[12]。しかし、左近が筒井家に仕えていたことが確認できるのは、天正11年(1583年)5月に伊賀で筒井氏の陣所が夜討ちされた際の記事が初めである(『多聞院日記』)[13]。この時負傷した筒井家中の者の中に左近の名がある[13]

天正11年(1583年)12月には、羽柴秀吉の命で筒井氏の内衆11人の「大名成」が行われたが、その中に左近は含まれておらず、この頃の左近は重臣の地位になかったものとみられる[14]

天正12年(1584年)に順慶が死去すると、甥の定次が跡を継いだが、やがて左近は筒井家を辞することとなった[15]。酒色に溺れ、政治を顧みない定次を見限ったためと言われているが[16]、実際は島領の農民と中坊秀祐領の農民との水利をめぐる争いで、定次が中坊秀祐に有利な裁定をしたことが原因と考えられる[17]。また、既に石田三成に仕えていた慶長3年(1598年)6月に左近が家臣である下河原平大夫を筒井家の伏見屋敷に遣わして定次に馬を贈っており、その後も筒井家との関係は途絶えた訳ではないことが窺える[18]。筒井家を辞したのは天正16年(1588年)2月で、奈良興福寺の塔頭持宝院に寄食したという[15]

その後、蒲生氏郷に仕えた[19]。また『多聞院日記』天正18年5月の記事に左近の妻が伊勢亀山にいた記述があることから氏郷の与力である関一政を頼った可能性も指摘されている[20]山鹿素行の『武家事記』には筒井家を去った後に豊臣秀長に仕え、秀長の没後は豊臣秀保に仕えたという[21]
石田三成の時代

石田三成から、左近に仕官の要請があった時、それまでも多くの要請を断ってきた左近はやはり断るが、三成の説得により仕官を受け入れ、2万石の俸禄で召し抱えられた。これは、当時の三成の禄高4万石のうちの半分を与えられるという破格の待遇であり、『君臣禄を分かつ』の逸話として伝えられている(『常山紀談』)。もっとも、島左近が石田三成に仕えたのは、三成が佐和山19万石の城主になってからという説もあるが、それでも破格の待遇であったことには違いがない。屋敷は佐和山城下湖水寄りに与えられた[22]

石田三成は小姓の頃に知行500石全てを投げうって、柴田勝家や主君・豊臣秀吉が1万2,000石で召し抱えようとした豪傑・渡辺勘兵衛渡辺了とは別人)を召し抱えており、その話を元にして左近召し抱えの逸話が作られたとの説もある。

天正18年(1590年)5月25日、三成が佐竹義宣の家臣・東義久に宛てた文書があり、義宣が秀吉に謁見する際の心構えを述べたものだが、その使者として左近が登場する(『秋田藩家蔵文書』)[23]

三成は天正19年(1591年)4月に佐和山城主に就任しており[24]、翌年の『多聞院日記』には、天正20年(1592年)4月に左近の妻が「今江州サホノ城(=佐和山城)ニアリ」と書かれている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:51 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef