島津貴子
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島津 貴子
(貴子内親王)
佐土原島津家
1950年(昭和25年)
続柄昭和天皇第5皇女子

全名島津 貴子(しまづ たかこ)
称号清宮(すがのみや)
身位内親王 →(降嫁
敬称殿下 →(降嫁)
お印
出生 (1939-03-02) 1939年3月2日(85歳)
日本東京府(現:東京都千代田区)、宮城産殿
配偶者島津久永1960年 - )
子女島津禎久
父親昭和天皇
母親香淳皇后
栄典勲一等宝冠章

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島津 貴子(しまづ たかこ、1939年昭和14年〉3月2日 - )は、日本の元皇族島津久永勲等勲一等

皇籍離脱前の身位内親王で、皇室典範における敬称殿下。旧名は、貴子内親王(たかこないしんのう)、は貴子、御称号は清宮、お印[1]であった。

昭和天皇香淳皇后の第5皇女子(第7子、末子)。第126代天皇・徳仁今上天皇)と秋篠宮文仁親王の叔母。第125代天皇・明仁上皇)と常陸宮正仁親王の妹。
略歴1940年(昭和15年)3月頃、雛祭りを祝う香淳皇后と清宮(中央)、照宮(右)、孝宮の姉2人(左)1950年(昭和25年)9月24日、兄の継宮(皇太子)、姉の順宮と。左が清宮。
内親王時代

1939年昭和14年)3月2日午後3時55分、産気づいた香淳皇后は産殿に入り、午後4時35分に第5皇女(第7子、末子)を出産する[2][3]。誕生時の身長は51.2cm(1尺6寸9分弱)、体重は3503g(935匁弱)であった[2]。5時50分に父昭和天皇と対面し、6時50分には長姉・照宮成子内親王以下の姉宮達と対面した[2]。守り刀は月山貞勝の作[2]。御七夜の同月8日午前9時に浴場の儀、午前11時に百武三郎侍従長が皇后宮に遣わされて命名の儀が行われ[4]、「清宮貴子」と命名された[5]

この称号と名は万葉集6巻1005番の山部赤人の雑歌に由来している[6][7]。これは長兄・継宮明仁親王が明治天皇の「大教宣布」に由来した以外、和書を典拠とする命名としては初であった[6][7]。ただし、叔父の三笠宮崇仁親王が創設した「三笠宮」の宮号も万葉集に由来する[7]

学習院大学文学部イギリス文学科在学中の1960年(昭和35年)3月10日、日本輸出入銀行員であった島津久永と結婚し皇籍を離脱した。久永は日向国佐土原藩主家の第14代当主である島津久範伯爵の次男で、学習院在学時代は長兄の皇太子明仁親王の学友でもあった。貴子内親王は結婚に伴い学習院大学を中途退学した(当時は、結婚のため大学中退した場合は卒業生として扱われた)。

貴子内親王と久永は、曾祖父島津忠義を同じくする又いとこ(はとこ)同士である。さらにこの婚姻は、旧宮家・旧華族の当主やその継嗣には当たらない「平民かつ次男」として、皇室典範制定以来、初の事例となった[注釈 1]。皇太子明仁親王と正田美智子の結婚を機に、戦争責任論による昭和天皇の退位(明仁親王への譲位)を求める世論もあったが、貴子内親王と島津久永の婚約という慶事が間髪を容れず判明したことで、盛り上がることは無かった[8]
結婚前後のブーム期1959年(昭和34年)12月5日、建築中の新居前に立つ清宮と島津久永

兄の皇太子明仁親王と正田美智子の婚礼を1ヶ月後に控えた、1959年(昭和34年)3月19日、毎日新聞のスクープによって島津久永との婚約が明らかとなった[9]。清宮は「見合いで『平民』と結婚」であるとし、正田美智子が「恋愛結婚で『皇族』と結婚」したことと比較して報じられ、女性週刊誌の皇室報道が華やぎを増した[10]。新聞のスクープを、週刊誌が詳報し、女性週刊誌が女性目線で話題を維持する、という戦後皇室報道の流れが完成された[11]。こうして同年の間、美智子妃と清宮は、ライフスタイルやファッション等、あらゆる面で注目を受けた[12]。清宮は結婚によって皇室を離れて民間人になった身にもかかわらず、実質的には「皇族女性」として世間の憧れの的となった[13]

結婚会見での明るい様子が新しい時代を感じさせるもので、今なお名会見と言われる。また、この直前の、成年皇族として初めての誕生日会見の際、「どのような男性が理想ですか」という内容の質問に対しての「私の選んだ人を見て下さって…」は当時の流行語となり、前年の皇太子夫妻の結婚と、清宮の言葉をきっかけに、恋愛結婚が増えるようになった。皇太子夫妻や清宮は、「恋愛結婚」「男女平等」「自由」の象徴として、若者世代から人気が高かった[14]。加えて、夫となった久永も、人並みの苦労を経た堅実なサラリーマンとして、好意的に受け止められていた[15]。そのため、夫妻は理想の夫婦像として取り上げられており[14]、結婚後は世田谷区の新居に野次馬が詰めかけるなどブームを作った。また、貴子はペレス・プラード楽団のファンであったことが知られ、同楽団はご成婚の折に「プリンセス・スガ」という曲を作っている。

特に新婚旅行では、墓参を兼ねて佐土原藩ゆかりの宮崎県をマスコミ同伴で訪問した[15]ことは、その後の一大観光ブームの形成に大きく影響している[16]。夫妻は5月1日に、豪華客船「くれない丸」で神戸を発ち、5月3日に宮崎入り[15]。客船上では神津善行中村メイコ夫妻とともにテレビに出演し[15]宮崎県青島鹿児島県霧島高原での仲睦まじい様子も、詳細に報じられた[15]。また、貴子のファッションにも注目が集まった[15]

久永との間には、1962年(昭和37年)に禎久(後、カメラマン)を儲けている。

1963年(昭和38年)に週刊誌『女性自身』が実施した、「ベストドレッサーはだれか」というアンケート調査では、1位の淡路恵子に次ぐ2位であり、3位であった皇太子妃美智子を上回る評価と人気があった[17]
降嫁後

1964年(昭和39年)4月29日、生存者叙勲再開により勲一等宝冠章受章。同時期に夫 久永の米国赴任に同行した[18]5月1日に、夫妻がワシントンへ向かう際には、次兄の義宮正仁親王、叔父の三笠宮崇仁親王、次姉の鷹司孝子・平通夫妻、長姉の夫で元皇族の東久邇盛厚伏見博明、姉の夫池田隆政宮内庁長官宇佐美毅、そして久永の母を含む、親族・友人約100人による盛大な見送りがあった[19]

結婚後も、派手な言動に関し、批判を受けることもあった。例えば、1968年(昭和43年)に、知己であるヴァンヂャケット副社長石津裕介主催の「パジャマパーティ」に参加した際は、週刊誌等で酷評された[20]。またインテリアコーディネーターの資格を取り、1970年(昭和45年)、東京プリンスホテル内のショッピングモール「ピサ」に就職した[注釈 2]際には、宮内庁宮務課は「私企業だと好ましくない」と表明[21]。貴子はこうした賛否あることを踏まえつつ、勤務に意欲を示した[21]

1970年(昭和45年)に開催された大阪万博では、開会式・閉会式のテレビ番組で司会を務めるなど、タレントとしても活動した[22]。このことについて感想を問われた父天皇は、国民と皇室の距離が近づくことを好意的に捉えつつも、細部の感想については「研究しなければならない」と言葉を濁している[23]

1975年(昭和50年)11月、夫 久永のシドニー駐在に同行し、渡豪[24]。二度目の海外居住となった。

2005年(平成17年)11月15日に姪の紀宮清子内親王(皇籍離脱後:黒田清子)の結婚の際、直近の内親王の“降嫁”の例として、また皇室出身らしからぬトークの歯切れのよさから複数のメディアに出演した。

2019年令和元年)5月1日時点で、健在の昭和天皇の皇女(内親王)は姉の池田厚子と貴子のみである。民間企業(名誉職とは言えプリンスホテルの取締役)で勤務する島津貴子は「異色の皇女」と呼ばれる。
誘拐未遂事件

貴子は確認されているだけで2回、誘拐事件の対象となった(いずれも未遂)。

1963年(昭和38年)10月26日、貴子を誘拐し身代金5千万円を要求しようとした男が逮捕される「島津貴子誘拐未遂事件」が発生(同年11月21日までに犯人グループは逮捕)。

1970年(昭和45年)夏、京浜安保共闘議長だった川島豪横浜拘置所内から永田洋子らに手紙で貴子誘拐を指示していた[25]。永田は「反天皇というスローガンを、京浜安保共闘が掲げていない」ことを理由に、政治思想と合致しないと考えたため実行に移さなかった[25]。この件は、1981年(昭和56年)8月に判明した[25]

逸話等

久永の父に当たる
島津久範伯爵は、香淳皇后の母方の叔父である。

愛称の「おスタちゃん」は、清宮貴子(すがのみや たかこ)の称号と名前の最初の1文字をそれぞれ取ったものである。

1957年8月の軽井沢テニスコートにおける明仁皇太子(当時)と正田美智子の出会いは、貴子が皇太子に大会に出場するよう勧めたのがそのきっかけの一つとなった[26]

1959年四国旅行した際に、高知県の貝類収集家黒原和男の貝類標本を見学した。ここで未記載種のカセンガイ類が見出され、清宮を記念して新種スガノミヤカセン Hirtomurex filiaregis(Kurohara, 1959) として記載された[27]

若いころ、大江健三郎と対談したことがあり、大江『世界の若者たち』(新潮社、1962年)に収録されている。大江が「ぼくは天皇家にやつあたりしているでしょうか」と言うと、貴子は「たいへんなやつあたりよ、ウフ」と答えている。

栄典

1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[28]

1964年(昭和39年)4月29日 - 勲一等宝冠章


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