島津貴久
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 凡例島津 貴久
島津貴久像(尚古集成館蔵)
時代戦国時代
生誕永正11年5月5日1514年5月28日
死没元亀2年6月23日1571年7月15日
改名虎寿丸(幼名)→貴久→伯囿(法号
別名又三郎、三郎左衛門尉(仮名)、大中公[注釈 1]
神号靖国崇勲彦命
戒名南林寺殿大中良等庵主
墓所鹿児島市池之上町の福昌寺
官位従五位下修理大夫陸奥守従三位
幕府室町幕府薩摩大隅日向守護職
氏族島津氏
父母父:島津忠良
母:島津成久の娘・寛庭夫人
養父:島津勝久
兄弟御南肝付兼続室)、御隅(樺山善久室)、
貴久、忠将、にし(種子島時尭室、肝付兼盛室)、尚久花舜夫人島津義久室)
妻正室:肝付兼興の娘
継室:入来院重聡の娘・雪窓夫人
側室:肱岡氏
義久義弘歳久家久
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島津 貴久(しまづ たかひさ)は、戦国時代武将薩摩守護大名戦国大名島津氏の第15代当主。
略歴

戦国大名としての島津氏の中興の祖である島津忠良(日新斎)の嫡男で、「島津の英主」と称えられる。島津氏第9代当主・島津忠国の玄孫にあたり、第14代当主・島津勝久の養子に入って島津氏第15代当主となった。薩摩守護職・大隅守護職・日向守護職。官位従五位下修理大夫陸奥守

正室肝付兼興の娘、彼女の死後後妻として入来院重聡の娘を迎える。他、側室に本田氏(島津家久の母)。
生涯
家督相続

永正11年5月5日(1514年5月28日)、薩摩島津氏の分家、伊作氏相州家当主の島津忠良の長男として田布施亀ヶ城にて生まれる。この頃、島津氏は一門・分家・国人衆の自立化、さらには第12代当主・島津忠治、第13代当主・島津忠隆が早世し、第14代当主・島津勝久は若年のため、宗家は弱体化していた。

そこで勝久は相州家の忠良を頼り、大永6年(1526年)11月、貴久は勝久の養子となって島津本宗家の家督の後継者となった。大永7年(1527年)4月[1]、勝久は忠良の本領である伊作に隠居し、貴久は清水城に入って正式に家督を継承した[2]
島津実久の台頭

加世田出水を治める薩州家当主・島津実久はこれに不満を持ち、実久方で加治木の伊集院重貞・帖佐の島津昌久が叛旗を翻した。実父の島津忠良がこれらを討っている間に、島津実久方は北薩の兵が伊集院城を、加世田・川辺など南薩の兵が谷山城を攻略し、攻め落とした。さらに川上忠克を勝久のもとに送り、島津勝久の守護職復帰を説いた。貴久は鹿児島で攻撃され、夜に乗じて城を出て園田実明らと共に亀ヶ城に退いた。大永7年(1527年)5月に貴久は島津勝久との養子縁組を解消され、勝久は守護職の悔返(譲渡の無効)を宣言した。

従来、この一連の流れは近世の薩摩藩によって編纂された『島津国史』などによって実久の謀反として解釈されて通説となっていたが、実際には守護である勝久と先代当主であった兄(忠治・忠隆)の時代からの老中(家老)との間で対立があり、勝久は自分に近い者を老中として登用していた。勝久と貴久の縁組を推進したのは忠良の支援で本宗家の立て直しを図ろうとした後者の働きかけによるところが大きく、勝久の積極的な意思ではなかった。これに対して勝久に罷免された古くからの老中は貴久との縁組に反対して実久と結んだのである(伊集院重貞は勝久以前からの本宗家の老中であった)。このため、実久の挙兵を見た勝久は一転して考えを変えて守護職の悔返を図って自らの政治的権力の回復に乗り出したのであった[2]

ところが、勝久と老中達の対立は解消されないどころか却って深刻化し、老中達は実久を新たな本宗家の当主に擁立する動きを見せ始め、その結果、天文4年(1535年)には老中達は実久を迎え入れてクーデターを起こし、勝久を追放して実久を新しい本宗家当主・薩摩守護職にして擁立したのである。大隅国日向国の国人の中でも実久を支持する動きがあり、実久は一時的ではあるが名実ともに守護としての地位を確立したのである(こうした事情はこの時期の古文書の研究から明らかになったもので、貴久による統一後に作られた島津氏の史書からは抹消されている)[2]

この間、島津忠良は薩摩半島南部の国人衆(「南方衆」)を味方に取り込んで薩摩半島の掌握に努めた。天文2年(1533年)、貴久は日置郡南郷城の島津実久軍を破って初陣を上げている。そんな中で起きた島津本宗家のクーデターが発生し、守護を追われた勝久が再び忠良・貴久父子と結んだのである。一方、新しく守護になった実久から見ても守護所のある清水城(鹿児島)は薩摩半島の付け根にあり、忠良・貴久父子の存在は脅威であった。このため、両者の間で戦いが始まるが、実久の本拠地であった出水と鹿児島の間には距離があり、その間には渋谷氏一族(祁答院入来院東郷の諸氏)の支配地域があった。忠良は渋谷氏一族と結んで実久を牽制したのである[2]
薩摩統一

天文5年(1536年)、反攻を開始した忠良・貴久父子は伊集院城を奪還し、天文6年(1536年)に鹿児島に進撃して、入城した。続いて、天文7年(1538年)から翌にかけて、南薩における実久方の最大拠点・加世田城を攻略し、攻め落とした。そして、天文8年(1539年)に紫原において決戦が行われて実久方を打ち破った。実久は再起を期すために出水に撤退して守護としての実質を失い、そもそもの混乱の発端であった勝久も鹿児島に復帰する支持を得る事が出来ず、母方の大友氏を頼り豊後国亡命していった。ここに相州家出身の貴久は鹿児島及び薩摩半島を平定して薩摩守護としての地位を確立するとともに、戦国大名として国主の座についた[2]

ところが、忠良・貴久父子の急激な台頭は島津氏の一門や薩摩・大隅の国人衆に動揺を与えた。天文10年(1541年)になると、豊州家島津忠広肝付兼演・本田薫親(ともに勝久時代の老中)らが共謀し、豊州家以下13氏が勝久の子・益房を擁して貴久方である大隅・生別府(おいのびゅう)の樺山善久を攻めた。13氏の中にはこれまで貴久方であった筈の渋谷氏一族も含まれており、忠良・貴久父子に味方するのは南方衆や肝付兼続など少数に過ぎなかったが、辛うじてこれを撃退した。忠良・貴久父子は本田薫親に樺山氏を生別府から薩摩谷山に移封させてその空地を与えると持ち掛けて和睦し、13氏の連合を崩すことに成功した[2][3]。天文14年(1545年)に入ると朝廷の上使である町資将が薩摩を訪問して貴久が同国の国主として朝廷に公認される形になった。また、同じ天文14年(1545年)には伊東氏の侵攻と家督相続問題を抱えた豊州家が貴久の保護を求めて従属し、天文18年(1549年)には肝付兼演が降伏、本田薫親は一度は和睦して貴久の老中に取り立てられるも独自の行動が多く[注釈 2]、天正17年(1549年)に朝廷に対して勝手に官位を申請したことが叛逆とみなされて討伐・追放された[注釈 3]


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