島津氏
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島津氏
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本姓惟宗忌寸流朝臣
家祖島津忠久
種別武家
華族公爵
主な根拠地

鎌倉

薩摩藩

薩摩国

大隅国

日向国


東京府

鹿児島県

著名な人物島津久経
島津忠良
島津貴久
島津義久
島津義弘
島津歳久
島津家久
島津重豪
広大院
島津斉彬
島津久光
島津忠義
天璋院
支流、分家玉里家公爵
佐土原家(武家・伯爵
重富家(武家・男爵
加治木家(武家・男爵)
垂水家(武家・男爵)
今和泉家(武家・男爵)
日置家(武家・男爵)
都城家北郷氏)(武家・男爵)
宮之城家(武家・男爵)
伊集院氏
新納氏
川上氏
桂氏
佐多氏
迫水氏
樺山氏
山田氏
喜入氏
野々山氏
町田氏
凡例 / Category:日本の氏族

島津氏(しまづし)は、武家華族だった日本氏族

鎌倉時代から明治時代初期まで薩摩を領し、廃藩置県で薩摩統治から離れた後に公爵家となった薩摩島津氏が最も有名だが、他にも多数の分家[注釈 1]がある。本項は主に、薩摩島津氏を本流とした記述である。

通字に「忠」・「久」[注釈 2]。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。
概要

治承・寿永の乱終結後の元暦2年/文治元年(1185年)8月、島津家の家祖島津忠久は、五摂家筆頭の近衛家島津荘下司職に任じられる。これに始まり、鎌倉幕府成立後には源頼朝より、三州すなわち薩摩国大隅国日向国の3国の他、初期には越前国守護にも任じられ、鎌倉幕府有力御家人の中でも異例の4ヶ国を有する守護職に任じられた。以降、島津氏は南九州の氏族として守護から守護大名、さらには戦国大名へと発展を遂げ、その全盛期には九州のほぼ全土を制圧するに至った。天正15年(1587年)には豊臣秀吉九州平定を受けるも、3ヵ国の旧領は安堵された[2]

関ヶ原の戦いで西軍に属して敗戦したが、領地を安堵されて江戸時代には77万石という外様大名屈指の雄藩となる。幕末には長州藩毛利家とともに討幕運動の中心勢力となり、明治維新の原動力となった。明治時代、大正時代には政財界に重きをなした[2]。島津家は本家、分家、旧支藩藩主家や旧一門家臣など14家が華族に列しており(公爵家2家、伯爵家1家、男爵家11家)、この数は松平家(29家)に次ぐ[3]

この薩摩島津氏の他、越前、信濃駿河若狭播磨近江に支流としての島津氏が派生し、それぞれ越前島津氏信濃島津氏、河州島津氏、若狭島津氏播磨島津氏江州島津氏と呼ばれている。

島津氏は、多くの大名の中でも鎌倉室町から江戸現代まで名門として続いている稀有な家である。
出自・近衛家荘官・鎌倉幕府御家人「教導立志基」より『丹後局』
水野年方

島津姓については、諸説ありとし、忠久が元暦2年(1185年)8月17日[4]近衛家の領する島津荘下司職に任じられた後、文治元年(1185年)11月28日文治の勅許以降、源頼朝から正式に同地の惣地頭に任じられ島津を称したのが始まりとされている。忠久の出自については、『島津国史』や『島津氏正統系図』において、「摂津大阪住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局源頼朝側室で、忠久は頼朝の落胤」とされ、出自は頼朝の側室の子とされている。

同じく九州守護に任じられた島津忠久と豊後大友能直に共通していることは、共に後の九州を代表する名族の祖でありながら、彼らの出自がはっきりしないということ、いずれも「母親が頼朝の側室であったことから、頼朝の引き立てを受けた」と伝承されていることだろう。忠久は摂関家の家人として京都で活動し、能直は幕府の実務官僚・中原親能猶子だった。この当時、地頭に任じられても遠隔地荘園の荘務をこなせる東国武士は少なかったと見られ、島津氏も大友氏も軍功ではなく荘園経営能力を買われて九州に下っている形が共通している[注釈 3]
その他の出自に係る説について

忠久の実父については諸説あり、頼朝の実子であり惟宗広言の養子であったとする説以外に、広言の実子であるという説があるが、通字の問題などから広言の実子説については近年疑問視する説もある。
歴史
鎌倉時代忠久を近衛家島津荘の下司職に推薦する頼朝の書状(元暦二年八月十七日源頼朝下文)

鎌倉幕府初代征夷大将軍源頼朝より、元暦2年(1185年忠久はわずか6歳[5]で当時日本最大の荘園・島津荘地頭職に任命されて以降、薩摩・大隅・日向の守護職、ほどなくして越前の守護職も追加される。文治5年(1189年)には源頼朝率いる鎌倉幕府軍による奥州征伐では東北遠征に10歳で従軍している。忠久は鎌倉幕府内で特別な御家人であったが、建仁3年(1203年)頼朝亡き後起こった比企能員の変連座し一時、守護職を失うことになるが、後に薩摩・大隅・日向の守護職を回復している。

忠久の長男である島津忠時承久の乱にて鎌倉幕府方の有力武将として相当の武功を挙げたとみられ、薩摩国大隅国日向国の他、若狭国守護職や伊賀国讃岐国和泉国越前国近江国など各地の地頭職も得るなど鎌倉幕府でも巨大な御家人となる。また承久の乱の際に忠時が使用した太刀は『綱切』と号されて、源氏の白旗、家祖・忠久愛用の大鎧は共に島津宗家当主が私蔵すべき家伝三種の重宝として相伝することとなった(『西藩野史』)。乱後、忠久は越前国守護職に補せられ、計五ヶ国を有するなど鎌倉幕府内でも筆頭守護人となる。1227年安貞元年)、忠久の死去に伴い嫡子忠時が島津氏2代当主の座を継ぎ、所職を相続したが、越前国守護職はほどなくして後藤氏に交替している。

忠久以降の島津氏は幕府の有力な御家人の常として当主は鎌倉に在住し、現地における実際の差配は一族・家人を派遣し、これに当たらせていたが、3代・島津久経元寇を機に下向して以来一族の在地化が本格化し、4代・島津忠宗は島津氏として初めて薩摩の地で没した。
南北朝時代

やがて鎌倉幕府の力が衰えて倒幕の機運が高まると、1333年元弘3年、正慶2年)に5代・島津貞久後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕運動に参加する。貞久は九州の御家人とともに鎮西探題を攻略し、鎌倉幕府滅亡後には初代・忠久以来の大隅・日向の守護職を回復した。その後、建武の新政が崩壊すると、建武政権から離反した足利尊氏摂津国で敗れて九州へ逃れてきたため、少弐氏と共に尊氏を助け、筑前国多々良浜の戦い福岡県福岡市)で菊池氏後醍醐天皇の宮方と戦うなど、九州武家方の有力大名として活躍する。しかし、南北朝時代1342年南朝:興国3年、北朝:康永元年)中期に南軍の征西将軍として派遣された懐良親王南九州へ入り、菊池氏と共に勢力を強大化させたため、一時は南朝方にも属するなど苦戦を強いられた。

その後、幕府方に復帰した貞久は死の直前の1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年)に幕府に対して申状を送っている[6]。その中で貞久は島津荘は薩摩・大隅・日向一帯を占める島津氏の本貫であり、3国の守護職は源頼朝から与えられたもので大隅・日向の守護職は鎮西探題(北条氏)に貸したものに過ぎないとして3か国守護であることの正当性を訴えた。前述のように島津氏は比企能員の変で処罰された結果として大隅・日向の守護職を没収されたもので、貞久の主張は史実ではない。しかし、貞久のこの信念は彼の後継者や島津氏の一族・家臣団に共有されて後世に伝えられ、今日なお「島津氏は鎌倉幕府成立以来中世を通じて薩摩・大隅・日向3か国守護職を相伝し、700年にわたって3か国を領有した」という史実とは異なる認識[7]を定着させることになる[8]

貞久は嫡男の島津宗久を早くに失っていたため、三男の島津師久と四男の島津氏久にそれぞれ薩摩・大隅の守護職を分与し島津氏を分割継承させた。島津師久は上総介に任じられていたので、その子孫は総州家、島津氏久は陸奥守に任じられていたので、その子孫は奥州家と言われた。分割継承の後は、6代・氏久(奥州家)が水島の陣にて武家方である九州探題今川貞世少弐冬資謀殺(水島の変)に怒り、武家方を離反すると、同じく6代・師久(総州家)もこれに順じて武家方から離反するなど、両家は団結して島津氏に仇なす征西府と今川探題が一揆させた南九州国人一揆と戦い、やがてそれら外敵を退けることに成功した。

しかし、共通の外敵を持つ間は固い団結を誇った島津両家も、その外敵が消え去った後は、互いが最も脅威となる存在となった。
室町時代前期・中期

南北朝の内乱を分割継承という形で乗り切った両島津氏であったが、打倒すべき共通の敵を失うと、互いを脅威とみなし対立を深めた。やがて7代・島津伊久(総州家)とその嫡子・島津守久が不和となり、総州家内部で内紛が勃発すると、7代・島津元久(奥州家)がこれを調停し、恩義を感じた伊久より薩摩守護職と島津氏重代の家宝を譲られ、表面上は両島津氏は再統一された。後に室町幕府にも相続が安堵された[注釈 4]。しかし、総州家が滅亡したわけではなく、両家の対立は残ったままであった。なお、この元久の頃より守護所が鹿児島の清水城へ移り、本格的に鹿児島の街が開府した。

守護職が奥州家の元に統合された島津氏だったが、元久が嗣子無く没すると、島津一族の筆頭であった伊集院頼久が自身の子息を本家当主に据えようと画策する。これを察知した元久の弟・島津久豊は元久の位牌を奪って8代当主となった。


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