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凡例島津 忠良
島津忠良像(尚古集成館蔵)
時代戦国時代
生誕明応元年9月23日(1492年10月14日)
死没永禄11年12月13日(1568年12月31日)[1]
改名菊三郎(幼名)→忠良→愚谷軒(法号)→日新斎
別名三郎左衛門尉(仮名)、相模守(受領名)、伊作忠良
神号日新偉霊彦命
戒名梅岳寺殿
日新寺殿
梅岳常潤在家菩薩
墓所鹿児島県南さつま市加世田武田の常潤院跡
官位贈従三位
主君島津忠昌→忠治→忠隆→勝久→貴久
氏族伊作氏→島津氏(相州家)
父母父:伊作善久
母:梅窓夫人(常盤、新納是久の娘)
養父:島津運久
兄弟女(吉田位清
島津 忠良(しまづ ただよし)は、薩摩の戦国武将。島津氏の中興の祖として著名。号は日新斎(じっしんさい)。日新公(じっしんこう)としても知られる[2]。 島津氏の分家・伊作氏の出身(このため、「伊作忠良」と呼ばれる事もある[注釈 1])。父・伊作善久が明応3年(1494年)に馬丁に撲殺され、祖父・伊作久逸も明応9年(1500年)、薩州家の内紛に関与し加世田で戦死したため、母・梅窓夫人が一時的に伊作氏当主となる。この間、伊作氏は周辺の諸豪族の攻撃に晒されるが、田布施の相州家当主・島津運久に加勢を頼み、運久も承諾してその都度兵を送り撃退していたと言う。 忠良は幼児の頃、桂庵禅師から『朱子新註四書』の学習を受け、ことに『論語』に通じ、賢徳の聞こえが高かった。また、禅を修め、神道の奥儀を究め、儒神仏の三教を融合して新たに一流を開いた。これが日学 当時の島津宗家は第11代忠昌の死後、守護職を継いだ長男の第12代忠治、次男の第13代忠隆が若年で相次いで病死し、はじめ頴娃氏の養子に入っていた三男の忠兼(後の勝久)が永正16年(1519年)に継いだ。だが急遽後を継いだこともあり政権基盤も弱く、守護と言えど各地の在郷領主を抑える力はなかった。忠兼ははじめ出水に拠点を持つ有力分家の薩州家第5代当主・島津実久の助力を得て勢力を挽回することを図り、実久の姉を正室に迎えて国政を委任していた。しかし実久は権力をほしいままにし、当時まだ男子のなかった忠兼に対して自身を世子にするよう迫ったので、忠兼は正室を離縁し実久を遠ざけた。すると実久は兵を挙げて反攻に及び、忠兼を鹿児島から追放して守護を自称するまでに至り、領内は騒然となった。大永6年(1526年)、実久の専横に対し忠兼は英明の誉れ高い忠良に支援を求めた。忠良は国政委任を引き受けるとともに、自身の長子虎寿丸(後の貴久)を忠兼の養嗣子として送り込んだ。同年11月27日、忠兼は元服した貴久に守護職を譲り忠良にその後見を依頼、自らは出家して伊作に隠居した。これを見届けた忠良は33歳で剃髪して愚谷軒日新斎と号し、以後貴久を輔佐して三州統一に邁進することになる。ただし、このことを報じた島津忠朝の書状[4]によれば、貴久への守護職譲渡は大永7年(1527年)4月のこととされている[5]。 しかし島津宗家の家督を狙っていた実久はこの事態に不満を持ち猛烈に抗議し、忠兼と貴久との養子縁組を解消させようとした。そして、何よりも忠兼本人も貴久に守護職を譲ったことを後悔して5月には悔返を言い出すようになっていた[注釈 2][5]。 大永7年(1527年)6月5日、忠良・貴久に対し加治木地頭の伊地知重貞
生涯
伊作氏当主から相州家継承
息子・貴久の島津宗家継承
宗家家督を巡る内紛
享禄2年(1529年)、豊州家の島津忠朝、新納忠勝、禰寝清年、肝付兼演、本田薫親、北郷忠相、樺山幸久、運久らが鹿児島清水城に集まり、島津勝久に島津忠良と和解するよう求めるが失敗。
天文2年(1533年)3月27日、忠良・貴久は反攻を開始。2月に実久方に回った日置南郷城主・桑波田栄景攻めを行う。この戦いで忠良は南郷城を攻略する為、盲僧を間者として送り込み情報を集めさせ、城主が狩りで留守を知るや、猟夫の変装をした自らの軍勢を城主の軍勢と偽って入城し即日陥落させた。この時、忠良は南郷の地を「永吉」と改める。桑波田栄景は8月に永吉城(南郷城)奪回を計り鹿児島・吉田・日置等の実久軍兵を集め反撃を試みるが、内通で来襲に備え守備を固めていた忠良勢に負け敗走。同年12月、実久に攻略されて服従していた日置城主・山田有親は、忠良に領地を献じて降伏した。
天文3年(1534年)、勝久は自らの手で再び政務を執ろうとしたが歴代の臣を遠ざけ、俗曲戯芸に興じ政務を怠っていた。忠臣は連判の上、これを諫めたが聞き入れられなかった。このような状況で家臣の川上昌久は勝久近臣・末弘忠重を誅殺。勝久は一時、大隅根占に逃れた。翌年、川上昌久は勝久の命で自刃。勝久は鹿児島に戻る。しかし、こうした勝久の振舞いに対して島津宗家の老中(重臣)は実久を頼って勝久を排除する動きを見せた。天文4年(1535年)8月、実久方の兵は鹿児島を攻め街を炎上させ勝久は帖佐に逃れた。9月、勝久は祁答院重武、肝付兼利らとともに鹿児島を攻め攻略。谷山に進撃するが敗れて肝付兼利が戦死。10月、勝久は帖佐に移り、実久が鹿児島に入った。