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凡例島津忠紀
時代江戸時代
生誕享保19年9月3日(1734年9月29日)
死没明和3年6月5日(1766年7月11日)
改名壮之助(幼名)→忠紀
別名周防(通称)
墓所鹿児島県姶良市平松 越前島津家墓所(紹隆寺跡)
主君島津吉貴→継豊→宗信→重年→重豪
藩薩摩藩
氏族末川氏→重富島津家
父母父:島津吉貴、母:お幾(郷田兼近
島津 忠紀(しまづ ただのり)は、江戸時代中期の薩摩藩士。始羅郡重富郷[1]領主。越前島津家16代当主。藩主一門筆頭重富島津家初代当主。 享保19年(1734年)9月3日、薩摩藩主島津吉貴の四男として父の隠居所の磯御殿で生まれ、9日に末川壮之助と名づけられる。母は郷田兼近の娘お幾。生後まもなく兄で藩主の島津継豊生母であるお須磨(名越恒渡の妹)の養子となる。 元文2年(1737年)3月18日、父吉貴の意向で、天文3年(1534年)に戦死した越前島津家当主忠長の名跡相続を命じられる(重富家の創設)。島津姓と十文字家紋を許され、高1万石と屋敷を与えられ、一所持ちとなる。家格はそれまで脇の総領とされていた加治木島津家の上とされた。 元文3年(1738年)1月、藩内に一門家の家格が設けられ一所持ちから御一門となり、重富家が一門筆頭とされた。元文5年(1739年)3月2日、実兄の垂水島津貴儔の加冠で元服し、島津周防忠紀と名乗る。 延享2年(1745年)3月、種子島久芳が元服の際に烏帽子親を務めた。宝暦元年(1751年)9月15日、藩主島津重年の帰国御礼使者を務め、江戸に出府する。 なお一門家成立まで筆頭扱いであり、藩政にも参与していた貴儔1代に限り、垂水家が一門家筆頭とされていた(「列朝制度」参照)ため、宝暦6年(1756年)の『松平又三郎家中分限帳』(原本東京大学史料編纂所所収)では貴儔の下座に記載されている。 明和3年(1766年)6月5日死去。享年33。家督は嫡男の壮之助(忠救)が相続した。 国立歴史民俗博物館所蔵の越前島津家文書に、「島津周防」宛の琉球王尚穆(在位:1752年 - 1794年)の書状が現存しており、周防を名乗った忠紀か息子の忠救が琉球王と交流を持っていたことがわかる。
経歴
脚注^ 現在の鹿児島県姶良市
参考文献
林匡「島津氏一門家の成立--越前(重富)島津家を中心に」
国立歴史民俗博物館 歴史系総合誌「歴博」第194号 「越前島津家文書」に伝わる琉球国王の書状
表
話
編
歴
重富島津家初代当主(1737年 - 1766年)
宗家
忠久????-1227 | 忠時1227-1265 | 久経1265-1284 | 忠宗1284-1318 | 貞久1318-1363 | 総州家と奥州家に分裂
総州家
師久1363-1376 | 伊久1376-1404 | 守久1404-???? | 久世????-1417 | 久林1417-1430 | 断絶
奥州家
氏久1363-1387 | 元久1387-1411 | 久豊1411-1425 | 忠国1425-1470 | 立久1470-1474 | 忠昌1474-1508 | 忠治1508-1515 | 忠隆1515-1519 | 勝久1519-1526 | 貴久1526-1566 | 義久1566-1587 | 義弘1587-1602 | 家久1602-1638 | 光久1638-1687 | 綱貴1687-1704 | 吉貴1704-1721 | 継豊1721-1746 | 宗信1746-1749 | 重年1749-1755 | 重豪1755-1787 | 斉宣1787-1809 | 斉興1809-1851 | 斉彬1851-1858 | 忠義1858-1897 | 忠重1897-1968 | 忠秀1968-1996 | 修久1996-現在
分家・支流
越前家
忠綱
忠景
忠宗
忠秀
忠継 | 断絶
播磨家
忠行
行景
忠政
忠幹
忠藤
忠兼
忠親
範忠
忠?
忠秀
忠光
忠勝
忠持
忠長
忠之
義弘
政之
義綱
忠長
良久
忠義…義清
義重
忠正
信夫
昌之
伊作家
久長1281-1317 | 宗久1317-1354 | 親忠1354-1371 | 久義1371-1422 | 勝久1422-1433 | 教久1433-1442 | 犬安丸1442-1458 | 久逸1458-???? | 善久????-1494 | 忠良1494-1526 | 相州家相続