凡例島津忠国
島津忠国木像(尚古集成館蔵)
時代室町時代
生誕応永10年5月2日(1403年5月22日)
死没文明2年1月20日(1470年2月21日)
改名貴久→忠国
別名虎寿丸(幼名)、又三郎(通称)
神号小城山茂栄彦命
戒名大岳玄誉大禅定門
墓所鹿児島県鹿児島市福昌寺
鹿児島県南さつま市坊津
官位修理大夫、陸奥守
幕府室町幕府薩摩・大隅・日向守護
氏族島津氏
父母父:島津久豊、母:寿山夫人(伊東祐安の娘)
兄弟忠国、用久、季久、有久
島津 忠国(しまづ ただくに)は、室町時代の武将、守護大名。薩摩・大隅・日向守護。島津氏第9代当主。父は8代当主島津久豊、母は伊東祐安の娘。子に友久、立久、久逸、勝久、忠経、守棟、忠弘、頼久、娘(伊集院煕久室)。幼名は虎寿丸、初名は貴久。官職は修理大夫、陸奥守。法名は大岳玄誉。 応永10年(1403年)に日向国穆佐院高城(穆佐城)にて誕生、応永32年(1425年)、父が没したため家督を継ぐ。 応永34年(1427年)に日向の伊東祐立と和睦し、永享2年(1430年)に総州家の島津久林を討ち取って島津氏を統一した。通説では、永享4年(1432年)に伊東祐立との和睦が崩壊して再度日向に侵攻するも、領国では渋谷氏・伊集院氏ら国衆を中心とした国一揆が発生した。この国一揆は領国支配が危機に瀕するほどで、弟の持久(用久)を守護代に任じてその処理をさせたというが。そのため持久が力を持ちすぎたことにより兄弟間の争いが始まった、とされる。 ところが、近年になってこの時に忠国が隠居したとする史料[1]の存在や、持久が発給した文書が守護の書式である書下
経歴
永享7年(1435年)頃より、樺山孝久・北郷知久・新納忠臣・末広忠勝・高木殖家らが重臣・国衆を集めて日向国末吉にいた忠国を奉じて一揆を結成し、これに対して伊作教久・山田忠尚・種子島幡時・伊集院継久ら持久を支持する重臣・国衆たちもこれに対抗する一揆を結成した。もっとも、両者は最初から軍事衝突を意図していたものではなく、特に忠国派は忠国の嫡男とした次男・安房(後の立久)を後継者とすることを持久が認めるように交渉していた[3]。
その後、忠国・持久の争いは両者の間で一旦は妥協をみて持久が島津氏の当主として文書の発給を行っているが、6代将軍足利義教の弟大覚寺義昭が義教に逆らい、出奔して島津氏に匿われていたのを、幕府にご注進して幕命により嘉吉元年(1441年)3月13日自害させた件を機に幕府が島津家中の争いに介入し、同年12月12日に管領畠山持国が忠国に対して持久討伐を命じる御教書を下したことから、忠国は再び挙兵する。ところが、その矢先、忠国が高木殖家を持久に通じたとして討伐をしようとしたところ、家中最大の実力者にして殖家の親友であった樺山孝久が叛旗を翻して殖家救出に乗り出したために持久派の総攻撃を受けることになった。このため、幕府は嘉吉2年10月25日に改めて持久治罰の御教書を発給している[4]。だが、新納忠臣らの奔走で肝付兼忠を寝返らせ、樺山孝久の復帰に成功した忠国は文安5年(1448年)に持久を薩摩国谷山に追い詰める。だが、かつての国一揆の中心であった渋谷氏一族が菊池氏・相良氏の支援を受けて再び挙兵の動きを見せると、これを危惧した新納忠臣らの仲介で両者は和睦を結び、家督は再び忠国に戻された[5]。和解後、持久に分家の薩州家を立てさせた。
宝徳2年(1450年)、かつて伊集院氏領であった石谷(現在の鹿児島市石谷町)が忠国から町田高久(石谷高久とも)に与えられたことにより高久を一族の有力者であった伊集院煕久が一宇治城にて殺害した事件を発端として煕久を肥後へ追放し居城の一宇治城を没収、改修し国内支配を安定させた。