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島津 久房(しまづ ひさふさ、寛文13年4月10日(1673年5月26日) - 享保17年11月1日(1732年12月17日))は、江戸時代中期の薩摩藩士。島津光久の十八男。島津氏分家で準五男家とも言われる岩崎島津家祖。家格一所持格。幼名は千代徳。通称は主馬、求馬。諱は久房。島津継豊の側室・登免の父で、島津重年の外祖父である。組頭番頭を務め、小林郷地頭を兼任。
年譜
延宝7年(1679年):当時、藩主世子であった甥の綱貴より加冠されて元服。
延宝8年(1680年):通称を求馬に改名。
元禄8年(1695年):岩崎(現在の鹿児島市)に宅地を与えられる。このため分家後、久房の家は岩崎島津家あるいは岩崎家と云う。
元禄14年(1701年)11月14日:前の月に分家した異母兄の大蔵久明の例に倣い、同母兄の島津久記とともに藩主家より分家する。久明の家は準二男家、久記の家を準四男家、久房の家は準五男家とされた。
宝永2年(1705年):諸県郡小林郷地頭に就任。
宝永3年(1706年):五番組頭に就任。
宝永5年(1708年):二番組頭に転ず。
正徳元年(1711年):家格一所持格に列せられる。また、同家の次男以下は柳氏を称し、通字として房の字を使うことを命じられる。
享保14年2月11日;娘の登免が島津継豊の次男、善次郎を生む。
家族
父:島津光久
母:濱田勘左衛門純昌の娘[1]
同母兄弟:島津久記(島津準四男家の祖)
妻:川上久重