凡例島津 久光
島津久光(1867年、二条城にて)
時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕文化14年10月24日(1817年12月2日)
死没明治20年(1887年)12月6日(満70歳没)
改名通称:普之進(幼名)→又次郎→山城→周防→和泉→三郎
実名(諱):忠教→久光
別名字:君輝、邦行
雅号:徳洋、大簡、叟松、玩古道人、無志翁
墓所島津家墓地(鹿児島県鹿児島市)
官位従四位下・左近衛権少将、大隅守、従四位上・左近衛権中将、従三位・参議、従二位、麝香間祗候、内閣顧問、左大臣、正二位、公爵、従一位
幕府江戸幕府
主君島津斉興→斉彬→茂久→明治天皇
藩薩摩国薩摩藩国父
氏族島津氏→種子島氏→島津氏(宗家→重富家→宗家→玉里家)
父母父:島津斉興、母:お由羅の方
養父:種子島久道、島津忠公
兄弟斉彬、池田斉敏、久光、順姫、候姫
妻正室:島津千百子(島津忠公の娘)
側室:山崎武良子
子忠義、久治、珍彦、忠欽、忠済
養女:富子、輯子(真田幸民室)
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島津久光(原田直次郎筆、尚古集成館蔵)
島津 久光(しまづ ひさみつ)は、江戸時代末期の薩摩藩主・島津忠義の実父、明治時代の日本の政治家。位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。字は君輝、邦行。雅号は幼少時が徳洋、以後は大簡・叟松・玩古道人・無志翁と号した。
島津家第27代当主(薩摩藩10代藩主)島津斉興の五男で庶子。はじめ一門の重富島津家の養子に入ってその当主となっていたが、後に島津宗家に戻り、29代当主(12代薩摩藩主)となった息子の島津忠義を後見人として補佐した。維新後には明治政府の内閣顧問、左大臣に就任。明治4年に玉里島津家を起こしてその初代当主となり、島津宗家と別に公爵に叙せられた[1]。
同28代当主(11代藩主)島津斉彬は異母兄、同29代当主(12代藩主)島津忠義は長男。次男・久治は宮之城家、四男・珍彦は重富家、五男・忠欽は今和泉家、と島津家の旧来の分家をそれぞれ相続した。香淳皇后の曾祖父、第125代天皇明仁の高祖父にあたる。 文化14年(1817年)10月24日、薩摩国鹿児島郡(現・鹿児島県鹿児島市)の鹿児島城において誕生する。生母は斉興の側室・お由羅の方。幼名は普之進(かねのしん)。生母・お由羅の身分が低く、文政元年(1818年)3月1日に種子島久道の養子となり、公子(藩主の子)の待遇を受ける[注釈 1]。文政8年(1825年)3月13日に島津宗家へ復帰し、4月に又次郎と改称する。 同年11月1日、島津一門家筆頭の重富島津家の次期当主で叔父にあたる島津忠公の娘・千百子と婚姻し、同家の婿養子となる。これを機に鹿児島城から城下の重富邸へ移る。文政11年(1828年)2月19日に斉興が烏帽子親となり元服、忠教(ただゆき)の諱を授かる。天保7年(1836年)2月、千百子と婚礼の式を挙げる。天保10年(1839年)11月に重富家の家督を相続し、12月に通称を山城と改める。弘化4年(1847年)10月、通称を山城から周防へ改める。 斉興の後継の地位をめぐり、斉彬と忠教の兄弟それぞれを擁立する派閥が対立してお家騒動(お由羅騒動)に発展した結果、幕府の介入を招来し、嘉永4年(1851年)2月2日に斉興が隠退、斉彬が薩摩藩主となる。島津氏家督の座を争うかたちにはなったが、忠教自身は反斉彬派に担がれたという要素が強く、斉彬と忠教の個人的関係は一貫して悪くなかったとみられる[注釈 2]。また忠教は斉彬と同様、非常に学問好きであった。ただ、蘭学を好んだ斉彬と異なり、忠教は国学に通じていた。 弘化4年(1847年)、斉彬より軍役方名代を仰せつかり、海岸防備を任される。 安政5年(1858年)7月16日に斉彬が死去すると、遺言により忠教の実子・忠徳が12月28日、藩主に就任する(忠徳は翌年2月、将軍・徳川家茂に拝謁し、その偏諱を授かって茂久と改名。のちの忠義)。茂久の後見を務めた斉興が安政6年(1859年)9月12日に没すると、藩主の実父として茂久の藩内における政治的影響力が増大する。文久元年(1861年)4月19日に宗家へ復帰、「国父」の礼をもって遇されることになり、藩政の実権を掌握する。23日、通称を和泉、諱を久光に改める。文久2年(1862年)2月24日、重富邸から新築の鹿児島城二の丸邸へ移る(以後、藩内において「副城公」とも称される)。 藩内における権力拡大の過程では、小松清廉(帯刀)や中山尚之介等とあわせて、大久保利通・税所篤・伊地知貞馨(堀仲左衛門)・岩下方平・海江田信義・吉井友実等、中下級藩士で構成される有志グループ「精忠組」の中核メンバーを登用する[注釈 3]。ただし、精忠組の中心であった西郷隆盛とは終生反りが合わず、文久2年(1862年)の率兵上京(後述)時には、西郷が無断で上坂したのを責めて遠島処分(徳之島、のち沖永良部島に配流)にし、藩内有志の嘆願により元治元年(1864年)に西郷を赦免する際も、苦渋の余りくわえていた銀のキセルの吸い口に歯形を残したなどの逸話があるように、両者のあいだには齟齬があり、最後まで生涯にわたり完全な関係修復はできなかった。 江戸に送られた伊地知貞馨は文久元年(1861年)12月、芝の藩邸を燃やして参勤交代は不可能と申し開きをした。また有力大名を通じて久光を無位無官の島津三郎から待遇を改めさせようとした。それらは上京工作を行うためで近衛忠煕と近衛忠房へは勅命獲得の周旋を依頼して、家来の中山尚之介と大久保利通を京都へ送った。
生涯
若年期
藩の最高権力者へ