島村速雄
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生誕1858年10月26日
日本土佐国
死没 (1923-01-08) 1923年1月8日(64歳没)
日本東京府
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1880年 - 1923年
最終階級 元帥海軍大将
墓所青山霊園警視庁墓地
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島村 速雄(しまむら はやお、安政5年9月20日1858年10月26日) - 大正12年(1923年1月8日)は、日本海軍軍人元帥海軍大将正二位勲一等功二級男爵高知県出身。海兵7期首席。

「非常な秀才で智謀は底が知れない、軍人には珍しいほど功名主義的な所が無い、生涯はつねに他者に功を譲ることを貫いた、天性のひろやかな度量のある人物」などと評される。
生涯
生い立ち

安政5年(1858年)、土佐藩郷士・島村左五平と妻・鹿子の間に生まれる。幼名は午吉で、四人兄弟の次男であった。海南学校に学ぶ。幼い頃から秀才ぶりを発揮していたが、9歳の時に父を亡くし、家計が厳しかったため、学費が不要な海軍兵学寮への進学を希望し、勉学に励んだ。16歳のとき、島村の才気を耳にした司法省の役人から養子の誘いがあったが、「男子たるもの、他人の力で出世するのは意気地の無いことだ」として断っている(このとき、彼の代わりとして末弟が養子入りした)。17歳のときに上京、海軍兵学寮を受験して合格した(島村の在学中に「海軍兵学校」に改称)。
兵学校から士官へ

海軍兵学寮でも、相変わらずの秀才であった島村は、本科では常に首席であり、「兵学校7期に島村あり」と言われるほど名を知られるようになった。この兵学校時代では、イギリス式の海軍規律に初めて触れるとともに、吉松茂太郎加藤友三郎らとの親交を持った。

23歳で海軍兵学校を首席卒業して海軍少尉補となり、軍艦扶桑」の乗組員に任ぜられる。当時甲板掛士官であった、兵学校の1期先輩である斎藤実は、転任の際、後任として誰を推薦するかと問われ、島村と即答している。その後島村は少尉に昇り、軍艦「浅間」乗務に転任する。

当時、日本の隣国の海軍は、二大戦艦「定遠」「鎮遠」を備え、生まれたばかりの日本海軍にとって多大な脅威であった。これに早くから危機感を抱いていた島村は、独学で砲術を学ぶようになる。戦術の専門家が軍内に育っていなかった当時のこと、島村は浅間乗務のまま砲術教授となり、その働きが認められて中尉に昇任する。島村は戦術をまとめた論文(アメリカ海軍軍人の著作の抄訳であったが)を発表したり、戦術の実地演習の演習法を考案したりと、海軍の戦術の進歩に貢献していく。それらの功績から大尉に昇った島村は、明治22年(1889年)からイギリスに3年間出張し、イギリス海軍のノウハウを学び、自らの戦術立案能力に磨きをかけることになる。
常備艦隊参謀

イギリスから帰国した島村は、巡洋艦高雄」の分隊長兼砲術長を経て、明治26年(1893年)3月13日、常備艦隊の参謀に任命される。当時の島村の大尉という階級から考えて、これは異例の大抜擢であった。同年5月に常備艦隊司令長官に着任した伊東祐亨中将のもと、彼はイギリス仕込みの訓練法を徹底するなど辣腕をふるった(当時の常備艦隊には参謀は島村一人しか置かれておらず、また伊東司令長官の磊落かつ悠揚な性格もあって、彼の意見はそのまま採用されることが多かった)。翌年に常備艦隊が改組されて連合艦隊となり、伊東が司令長官に就任すると、島村もまた連合艦隊参謀となった。同年新たに鮫島員規大佐が参謀長に就任し、島村の直接の上官となったが、鮫島は職務を部下任せにする気質があったため、島村の意見が持つ影響力には変化はあまり無かったようである。また同年少佐に昇任している。
日清戦争

日清戦争においては、島村は参謀として、連合艦隊旗艦「松島」に乗り組んで参加した。途中で上役である参謀長が出羽重遠大佐(当時)に交代した。鮫島とは異なり、謹厳かつ豪胆な性格の出羽であったが、島村とは気が合い、関係は良好であった。

日清戦争における島村のはたらきとしては、作戦立案面では坪井航三が主張していた単縦陣戦法を支持して黄海海戦を勝利に導いたほか、艦隊首脳部の間を取り持つ調停役としての活躍もある。敗戦の責任をとって清国の提督・丁汝昌が自害した際、清から没収した艦船の中から商船「康済号」を返し、丁の亡骸を送らせるという伊東の行動は世界各国から賞賛を受けたが、これにも島村の助言があったと言われる。
結婚

日清戦争終結後、島村は軍令部局員として働く傍ら、海軍大学校で教鞭を執ったり、イタリアへ駐在武官として派遣されたりと忙しい毎日を送っていたが、同居している母の鹿子が高齢になっていることもあり、身を固める意味で結婚を決意した。しかしそれまで結婚には一切興味が無かった島村には想う相手などおらず、親戚に紹介された20歳以上年下の女性に、写真すら見ないまま決めてしまった。実際に二人が顔を合わせたのは結納の日が初めてであった。結婚は明治31年(1898年)、島村41歳のときで、花嫁の近藤菅尾は当時19歳。結果的に結婚生活は上手くいき、夫婦仲は生涯円満であった。
義和団の乱

明治32年(1899年)、大佐にまで昇っていた島村は、防護巡洋艦須磨」の艦長に任じられる。下士官まで懇ろに労り、しばしばポケットマネーで催しを開いたり、士官を食事に誘ったりして、艦内の空気を良くすることに尽力する彼の勤務態度は高い評価を受けた。

翌年義和団の乱が勃発すると、澎湖島馬公にいた須磨は直ちに大沽に派遣されて警備についた。島村は当時の海軍大臣山本権兵衛から、大沽に派遣された日本海軍の司令官役として推され、指揮を執った。迅速かつ的確な判断で指示を出す一方で、自ら哨兵として立つなど率先して働き、その目覚しい活躍から、英国海軍中将シーモアから感謝のメッセージを貰っている。
日露戦争

義和団の乱が終結すると、日本とロシアの対立がいよいよ鮮明となった。明治36年(1903年)、来るべきロシアとの戦争に備えて連合艦隊が再び組織され、東郷平八郎中将が司令長官に任命されたが、島村は幕僚のトップである参謀長となった。これには日清戦争での経験から伊東祐亨が強く推挙したことも大きい。

日露戦争には旗艦「三笠」に乗り組み、旅順港封鎖に参加。連合艦隊は機雷によってロシア海軍の名将ステパン・マカロフを戦死させたが、このときに機雷敷設の指揮をとった小田喜代蔵に対し、作戦の訓令を起草したのは島村であった(他にも東郷名義の報告書を代筆するなど、文章力についても評価されていたようである)。


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