島本和彦
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バスケットボール解説者、編集者の同名の人物については「島本和彦 (バスケットボール)」をご覧ください。

島本 和彦
本名手塚 秀彦(てづか ひでひこ)[1]
生誕 (1961-04-26) 1961年4月26日(63歳)
日本北海道中川郡池田町
国籍 日本
職業漫画家
実業家
活動期間1981年 -
ジャンル少年漫画
青年漫画
パロディ漫画
代表作『炎の転校生
逆境ナイン
吼えろペン
アオイホノオ
受賞第60回:小学館漫画賞一般向け部門(『アオイホノオ』)
第18回:文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞(『アオイホノオ』)
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島本 和彦(しまもと かずひこ、1961年昭和36年〉4月26日[2] - )は、日本漫画家実業家。本名:手塚 秀彦(てづか ひでひこ)[1]北海道中川郡池田町出身、北海道札幌市在住。漫画プロダクション「ビッグバンプロジェクト」代表、株式会社アイビックおよび株式会社アカシヤ代表取締役社長。主な作品に『炎の転校生』、『逆境ナイン』、『燃えよペン』、『吼えろペン』、『アオイホノオ』がある。
経歴

池田町の木材業を営む家庭に生まれ[3][4]、幼少期を豊頃町で過ごした後、小学校1年生のときに札幌へ[5]。小学校のころから鉛筆でギャグ漫画を描き始める。札幌清田高校時代は陸上部と演劇部に所属する一方生徒会長も務め[6]、アニメや特撮のパロディ漫画も執筆していた。

卒業と同時に北海道を離れ、伯父(父の兄)が大阪に住んでいたこともあり[4]大阪芸術大学芸術学部映像計画学科(映像学科)進学のため転居。在学中の1982年昭和57年)、『週刊少年サンデー』2月増刊号にて「必殺の転校生」でデビュー[2]。デビュー後の大学を4年に上がる手前で中退[7]して大阪を離れ上京、プロの漫画家生活に入る。

「島本和彦」のペンネームを使ったのは「漫画の神様手塚治虫に遠慮して」とのことだが、後に自分の作品が「手塚漫画」と呼ばれることを避けるためでもある。デビュー当初『サンデー』誌上でも、読者に本名を聞かれた際に「謎である」と秘密にしていた。

1990年代前半からはまんが甲子園の審査員としても活動。

1994年(平成6年)にスーパーファミコンで発売されたRPG『ライブ・ア・ライブ』における『近未来編』のキャラクターデザインを担当。その本編中に出てくる巨大ロボット「ブリキ大王」には、主題歌「GO!GO!ブリキ大王」がある。ゲーム中では開発者達が考えた1番の歌詞しか出てこないが、製作サイドでは2番3番の歌詞を一般公募していた。そこに島本が「東京都在住、漫画家、島本和彦」の名前で、一般公募で応募したところ、2番の歌詞として即採用された[8]

1995年(平成7年)に東京から札幌に帰郷(後述)。それと前後して同人誌活動も行い、コミックマーケットにはほぼ毎回参加。

2001年平成13年)から2008年(平成20年)にはラジオ番組島本和彦のマンガチックにいこう!』(STVラジオ)のパーソナリティも務めた。

2015年(平成27年)に『アオイホノオ』で第60回小学館漫画賞一般向け部門、第18回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞。

父は北海道でダスキンのフランチャイズ事業を手がけるアイビックの設立者で、TSUTAYAのフランチャイズ店舗を運営するアカシヤの会長も兼任する手塚幸夫。長男の島本は副社長を務めていた[9][10]。母校の大阪芸術大学から教授就任の誘いもあったものの、母親の死去や父の高齢化を背景として父が「潰れそうな親の会社に戻ったからこそ今がある」と度々語っていた事から「何かを捨てて親の商売を手伝う事をしなければならない」との思いを強め[4]、将来的な事業継承のために社業で経験を積むべく2014年(平成26年)末から会社に常駐するようになり[11][3]2019年(平成31年)4月には父親から業務を引き継いで両社の社長に就任した[12][13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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