島木赤彦
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島木 赤彦
島木赤彦(1920年(大正9年)7月長崎にて)
誕生塚原俊彦
1876年12月16日
長野県諏訪郡上諏訪村
(現・長野県諏訪市
死没 (1926-03-27) 1926年3月27日(49歳没)
長野県諏訪郡下諏訪町
墓地長野県諏訪郡下諏訪町
職業歌人
国籍 日本
最終学歴長野県尋常師範学校
文学活動アララギ派
代表作『馬鈴薯の花』(1913年、歌集)
『赤彦童謡集』(1922年、童謡集)
『歌道小見』(1924年、歌書)
『柿蔭集』(1926年、歌集)
影響を受けたもの

正岡子規伊藤左千夫

影響を与えたもの

土田耕平鹿児島寿蔵

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島木赤彦像(下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館

島木 赤彦(しまき あかひこ[1]1876年明治9年)12月16日 - 1926年大正15年)3月27日)は、日本明治大正時代のアララギ派歌人。本名は久保田俊彦。別号、柿乃村人。

長野県上諏訪の生まれ。1898年、長野師範学校を卒業。小学校教員のかたわら、1903年に歌誌「比牟呂」を創刊、やがて伊藤左千夫の門下となった。

1909年には「比牟呂」を「アララギ」に合流させ、以来、斎藤茂吉、土屋文明らと並ぶアララギ派の有力歌人として活躍。左千夫と長塚節なきあとは上京し、「アララギ」の編集責任者となった。
生涯
おいたち

1876年(明治9年)12月16日、長野県諏訪郡上諏訪村角間(現諏訪市元町)[2]に旧諏訪藩士・塚原浅茅と妻・さいの四男として生まれる。父の浅茅は諏訪藩士として漢学国学を学んだ謹厳実直な人柄で、神官の職などに就いたが、維新後は松本師範講習所に学んで教員となり、諏訪郡豊平村(現・茅野市豊平)の古田学校に勤務したので、赤彦も幼少時代をここで過ごした(教え子に長田新がいる)。生活は貧しかったが、赤彦はこの自然と両親や家族の愛情の下で伸び伸びと育った。
文芸への開花

赤彦は歌道に通じていた祖母・さよの手ほどきを受けて5歳で百人一首を暗唱、7歳にして自ら望み、平田派の国学者・松沢義章の門下生であった父に家学を受けた。1881年(明治14年)古田学校の初等科に入学、大変腕白者であったと伝わっている。1885年(明治18年)赤彦が9歳のとき、生母「さい」が34歳の若さで死去し、父は翌年に継母「みを」を迎えた。

1890年(明治23年)、諏訪小学校高等科を卒業した赤彦は、諏訪育英会(後の諏訪中学校)に入って岩垂今朝吉、寺島傅右衛門、三輪三吉の教えを受けた。この頃、友人の永田市右衛門、長田幸治らに伍し和歌や俳句をたしなみ始めた。

1892年(明治25年)、雑誌『少年文庫』に「くれ竹の小ぐらきまでに茂りあふ 窓に煙るは蚊遣りなるらむ 」を投稿。翌年1月には『少年文庫』に「伏龍」の号を用いて新体詩「元旦」を発表。以後、同誌上で活躍する。

1894年(明治27年)、長野県尋常師範学校(現信州大学教育学部)に進学。同級生に矢島音次、太田水穂、大森忠三らがおり、彼らとの交流を通じて赤彦の文学熱は著しく旺盛になっていった。師範学校では短歌・俳句の他、「万葉集」に親しむ一方で、赤彦と水穂が学内における文芸活動の中心的存在となり、雑誌『文学界』を通じて島崎藤村の詩に傾倒し、詩作活動を活発に行った。赤彦は、「伏龍」の号の他に「二水」「二水軒」の号も用いて『少年文庫』『文庫』『少年園』『早稲田文学』『小文学』『もしほ草紙』や新聞『日本』など中央の文芸雑誌や新聞に短歌・新体詩を発表、淡白で感傷的な中に素朴な田園調の詩風をもって、青年時代の全力を傾倒して新体詩人としての存在を確立していった。

1898年(明治31年)には、長野尋常師範学校を卒業して、北安曇郡池田会染尋常高等小学校(現在の池田町立池田小学校)の訓導となった。同年4月、下諏訪町高木の久保田政信の養嗣子として同家長女・うたと結婚、久保田姓となった。1902年(明治35年)、うたの死去に伴い、彼女の妹・ふじのと再婚した。
『アララギ』と赤彦

アララギ』は1900年(明治33年)、正岡子規から始まった根岸短歌会が源である。子規没後、子規の文芸精神の継承発展と、一門の結束をはかろうと、伊藤左千夫が、1903年(明治36年)『馬酔木(あしび)』を興した。その後、編集・発行者らの意見の相違が絡み合うなか、『アカネ』『阿羅ゝ木』を経て1908年(明治41年)には『アララギ』となった。

一方、1903年(明治36年)、『馬酔木』より半年早く信州において島木赤彦、岩本木外らによって『氷むろ』(後に『比牟呂』)が設立された。10月、赤彦が伊藤左千夫に送った「床払の祝」二首が『馬酔木』に掲載される。以後、同誌に短歌・歌論を発表、伊藤とも親交を持ち、中央歌壇と積極的に接触をする。

『比牟呂』は1905年(明治38年)に一旦休刊するが、1908年(明治41年)赤彦が編集・発行人となり復刊。翌1909年(明治42年)8月、『比牟呂』は『アララギ』と合併する。

以降、『アララギ』は赤彦の信州からの全面的なバックアップを受けて、編集を伊藤左千夫が中心に古泉千樫斎藤茂吉石原純らが交替で当たったが、編集発行はルーズになり停滞しがちであった。伊藤左千夫が死去する直前の1913年大正2年)には、斎藤茂吉等と激しく対立し、休刊・廃刊も考えられる危機的状況となった。茂吉は、赤彦に窮状を訴え、休刊止む無しと伝えたが、赤彦が休刊の不条理を訴え、全面的に支援をするので休刊を思い止まるよう茂吉を説得したことにより、茂吉が休刊を翻意した経過がある(茂吉「アララギ」赤彦追悼号)。

1913年(大正2年)発行のアララギ叢書第1編、島木赤彦・中村憲吉の合著歌集『馬鈴薯の花』、また第2編の斎藤茂吉の『赤光』が注目された。特に茂吉の『赤光』が注目されるに及んで『アララギ』は歌壇で広く認められ、発行部数の飛躍的な増加など『アララギ』の「歌壇制覇」と言われる時期を迎えることになった。

1914年(大正3年)赤彦は当時『アララギ』の編集主任であった古泉千樫の運営を黙って見ていられず、自ら『アララギ』の再建を期して諏訪郡視学を辞任し、上京した。赤彦は早速会計整理に着手し、平福百穂の絵画頒布会の開催、また会員増強策を講ずるなどの努力を始め、死去する1926年(大正15年)までの約12年間「アララギ」の編集、発行の重責をになった。

しかし時間とともに赤彦の影響を受けた藤沢古実、土田耕平鹿児島寿蔵、高田浪吉らが編集発行の中心を担うに至り、生活の現実に根ざしたより堅実な写生歌風を形成、赤彦も写生を通した「鍛練道」を唱えるなどその真摯さがアララギ歌風の深度を増したが、反面狭隘なものにしたことは否めず、1924年(大正13年)の古泉千樫、釈迢空、石原純らが『アララギ』を脱退し、北原白秋前田夕暮らと合流、『日光』を創刊するに至る原因ともなった。
死去

1926年(大正15年)3月27日、胃癌のため下諏訪町の自宅で死去[3]。享年51。戒名は俊明院道誉浄行赤彦居士。

赤彦の死は、『アララギ』の一時代の終焉を告げるものでもあった。その後、『アララギ』は斎藤茂吉・土屋文明が代表となって戦後まで継続し、1997年(平成9年)に終刊した。しかし『アララギ』から派生した各結社は、それぞれに現在もなお活発に活動をしている。
教育者赤彦

赤彦は1890年(明治23年)に14歳で傭教員となり、教員への道を歩みはじめた。1898年(明治31年)、長野尋常師範学校を卒業して、北安曇郡池田会染尋常高等小学校の訓導となるが、早くもその4月、信濃教育会への議案提出に関わるなどの積極性をみせている。その後も信濃教育会の機関紙『信濃教育』へ研究や意見を発表し続け、1911年(明治44年)には、同総会において「教育の革新について」のテーマで意見発表もしている。とくに、1917年(大正6年)『信濃教育』の編集主任に就任してからは毎号巻頭論文を執筆しており、1920年(大正9年)に編集主任を辞任するまで学校教育のあり方、理想の教師像等をはじめ、哲学、文芸、時には時局問題までも触れ、その緻密な先見的論旨を発表した。

初任地の池田会染小においては、情熱的な青年教師として、当時珍しかった野球を教えたり、個性的な教育を進めるために、家庭状況、体格、学力、性格などを細かく記録した生徒経歴簿を作成した。

赤彦は一教師として、教え子に対し熱烈な教育をするとともに、後年は、管理的立場で教育に携わることにもなった。1909年(明治42年)には広丘尋常高等小学校(現在の塩尻市立広丘小学校)の校長に就任したが、さまざまな問題を抱え、毀誉褒貶のある時代であり、僅か2年で1911年(明治44年)には玉川尋常高等小学校長となった。


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