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島木 譲二
本名M 伸二
生年月日1944年9月13日
没年月日 (2016-12-16) 2016年12月16日(72歳没)
出身地 日本 兵庫県尼崎市
血液型AB型[1]
身長173 cm
言語日本語
事務所よしもとクリエイティブ・エージェンシー
活動時期1960年代(芸人としては1980年から) - 2010年
過去の代表番組吉本新喜劇
作品ブラック・レイン
他の活動プロボクサー
配偶者あり[2]
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島木 譲二(しまき じょうじ、1944年〈昭和19年〉9月13日 - 2016年〈平成28年〉12月16日[3][4])は、日本のお笑い芸人、プロボクサー、俳優、役者。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属[5]。興國商業高等学校卒業[6]。
本名はM 伸二(はま しんじ)[7]。芸名は石原裕次郎が演じた映画『俺は待ってるぜ』の元ボクサーの「島木譲次」役に由来する。 1944年9月13日、兵庫県尼崎市に生まれる[8]。小学校の時に見た映画『俺は待ってるぜ』[9]で石原裕次郎が演じた元プロボクサーのレストラン店主である島木譲次役に憧れ、中学生の頃から本名(M伸二)と役名(島木譲次)をもじって「ワシは島木譲二や!」と勝手に名乗っていたという[10]。また、長嶋茂雄や中西太にも憧れて野球に打ち込み、強豪校である興國商業高等学校(現:興國高等学校)に進学しているが、2年生の時に肩を壊して甲子園への道は断念した[10]。失意の中、次はボクシングの道に活路を見出そうと決め、ライセンスを取得して大阪新和所属のミドル級プロボクサーとしてデビューした。西日本新人王を獲得するなど活躍したが、目に異変を感じて治療を受けたところ、「失明の危険がある」と診断されて引退するなど[10][11]、身体の怪我に悩まされる青年期を送った。 引退後もボクシングとは関わりを持ち続け、交流のあった元プロボクサー(元東洋スーパーフェザー級王者)で西日本ボクシング協会会長も務めたアポロ嘉男が経営するボクシングジム(アポロジム)のアドバイザーや、日本ボクシングコミッション (JBC) の試合役員を務めた。また、公式試合においてタイムキーパーを務めていたこともあり、「ガッツ石松 vs ロドルフォ・ゴンザレス戦」(WBC世界ライト級タイトルマッチ、1974年11月28日、大阪府立体育会館)、「具志堅用高 vs ハイメ・リオス戦」(WBA世界ジュニアフライ級タイトルマッチ、1978年5月7日、広島県立体育館)といった世界タイトル戦でもタイムキーパーを担当したと語っている[12]。 経済的には警備員として生計を立て、大阪府吹田市にあったMBS千里丘放送センター(2007年閉鎖)の警備員(守衛)を務めていた[13]。高所から転落して足を骨折した際、リハビリの面倒を見てもらっていた殺陣師の紹介で時代劇の切られ役の仕事を貰い、その縁から吉本興業の地方巡業に呼ばれたりもしたという。1980年、芸人を志望していることを知った友人の間寛平から紹介され、吉本興業から島木譲二の芸名で正式デビューし、吉本新喜劇に入団する。芸人としては36歳の遅咲きであり、与えられる役割も見た目から悪役ばかりだったが、「一番のワルになったる」と奮起して役柄をこなしていたという[10]。 42歳の時に台本の「ゴリラみたいに」という指示からアドリブで披露した胸板を高速で叩き続けるネタが話題を呼び、後に大阪名物「パチパチパンチ」の名前で持ちネタとなった。派生芸として頭を灰皿で叩く「ポコポコヘッド」、一斗缶で頭をぶつける「カンカンヘッド」などを次々と編み出し、吉本における肉体派芸の走りとなった[10]。特に危険性の高い「カンカンヘッド」は「男のロマン」と称されており、後輩である麒麟の川島明によれば、新人時代に遅刻してあわてて舞台に上がると島木が30分間も「カンカンヘッド」で間をつないでくれていたことから、「まさに男のロマンだった」と語っている[14]。1989年、映画『ブラック・レイン』に役者として出演した[15]際には、監督のリドリー・スコットにパチパチパンチを披露して「ナイスボーイ!」と賞賛されたという[16]。
来歴