島崎雪子
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しまざき ゆきこ
島崎 雪子
『世界芸能画報』1953年10月号
本名土屋 とし子
生年月日 (1931-02-25) 1931年2月25日
没年月日2014年
出生地 日本東京都
職業女優歌手
ジャンル映画テレビドラマ舞台
活動期間1949年 - 1967年1981年
配偶者神代辰巳(映画監督)
(1955年?1967年)
主な作品
映画
めし』(1951年 成瀬巳喜男
若い人』(1952年 市川崑
七人の侍』(1954年 黒澤明
暗黒街の弾痕』1961.1.3 岡本喜八
顔役暁に死す』(1961年 岡本喜八
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島崎 雪子(しまざき ゆきこ、1931年2月25日 - 2014年)は、日本の元女優シャンソン歌手。本名:土屋 とし子(つちや としこ)。元夫は映画監督神代辰巳東京都出身。大田原高等女学校(現・栃木県立大田原女子高等学校)卒業。
経歴『アサヒグラフ』 1952年8月27日号

終戦後、バーの女給などをしながら役者を志し、中央演劇学校で学び、1949年俳優座養成所の2期生になった。1950年に新東宝映画のフレッシュガールに応募。藤本真澄の目に適い『山のかなたに』でデビューした。芸名は、石坂洋次郎が『青い山脈』のヒロインの名から採ったもの。二作目の『夜の緋牡丹』の製作では、主役の座をめぐり脚本の八田尚之に直談判後、一時行方不明となった。結果的に主役の座を争っていた女優が降板したため、『夜の緋牡丹』では主役を得ている[1]

1951年東宝に入社。映画『めし』『若い人』『七人の侍』などに出演し活躍。東映や日活、新東宝の映画にも多数出演している。

1955年に当時は日活の助監督であった神代辰巳と結婚。

1959年からはシャンソン歌手としても活動を始め、同年の「第10回NHK紅白歌合戦」に歌手として初出場した(詳細は下記参照)[2]。この回の紅組の初出場は他にザ・ピーナッツらがいる。

1963年、銀座にシャンソニエ「エポック」を開店し、後に高級クラブへと形態を変えながらも約20余年経営する。1967年に神代辰巳と離婚(後年、別の男性と再婚)したのを機に芸能界から退いた。

1981年、舞台『プラトーノフ』で紀伊國屋ホールに出演し、芸能界へ一時復帰を果たした。

2014年死去[3]
主な出演
映画もぐら横丁』(1953年)

山のかなたに(1950年、新東宝

夜の緋牡丹(1950年、新東宝

若い娘たち(1951年、東宝

麗春花(1951年、新東宝)

青い真珠(1951年、東宝)

めし(1951年、東宝)

ラッキーさん(1952年、東宝)

金の卵(1952年、東宝)

若い人(1952年、東宝)

激流(1952年、東宝)

人生劇場・第一部(1952年、東映

人生劇場・第二部(1953年、東映)

もぐら横丁(1953年、新東宝)

日の果て(1954年、松竹)

七人の侍 Seven Samurai (1954年、東宝) - 黒澤明監督。ヴェネツィア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞受賞作品。

かくて夢あり(1954年、日活

八州侠客伝 白鷺三味線(1955年、松竹)

しいのみ学園(1955年、新東宝)

俺は藤吉郎(1955年、大映)

皇太子の花嫁(1955年、新東宝)

君は花の如く(1956年、松竹)

みな殺しの歌より 拳銃よさらば!(1960年、東宝)

がんばれ! 盤嶽 (1960年)

暗黒街の弾痕(1961年、東宝)

顔役暁に死す(1961年、東宝)

若い仲間たち うちら祇園の舞妓はん(1963年、東宝)

テレビドラマ

転落の詩集(1959年、NET

しかもバスは走って行く(1959年、NHK

愛する(1960年、NET)

四ツ葉のクローバー(1960年、NET)

諜報(1960年、CX

東芝日曜劇場・妹のまん中(1960年、KR


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