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誕生島崎 春樹(しまざき はるき)
1872年3月25日
日本・筑摩県第八大区五小区馬籠村
(現・岐阜県中津川市馬籠)
死没 (1943-08-22) 1943年8月22日(71歳没)
日本・神奈川県大磯町
職業詩人
小説家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴明治学院本科
活動期間1897年 - 1943年
ジャンル詩
小説
文学活動ロマン主義
自然主義文学
代表作『若菜集』(1897年、詩集)
『破戒』(1906年)
『春』(1908年)
『家』(1911年)
『千曲川のスケッチ』(1912年)
『桜の実の熟する時』(1919年)
『新生』(1919年)
『嵐』(1926年)
『夜明け前』(1929年 - 1935年)
主な受賞歴朝日文化賞(1936年)
親族上田理仁
島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日(明治5年2月17日) - 1943年(昭和18年)8月22日)は、日本における詩人又は小説家である。本名は島崎 春樹(しまざき はるき)。信州木曾の中山道馬籠[注 1](現在の岐阜県中津川市馬籠)生まれ。帝国芸術院会員。
『文学界』に参界し、ロマン主義に際した詩人として『若菜集』などを出版する。さらに、主な活動事項を小説に転じたのち、『破戒』や『春』などで代表的な自然主義作家となった。作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる[2]『家』、姪との近親姦を告白した『新生』、父である島崎正樹をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などが存在する。 島崎家の祖は相模国三浦半島津久井(現在の神奈川県横須賀市)発祥の三浦氏の一族で、島崎重綱の代に木曾義在に仕えて木曽谷に入り、その長男重通が郷士として馬籠を開拓して中山道の宿駅として整備し、代々本陣や庄屋、問屋を務めた。父の島崎正樹は17代当主で平田派国学者だった。 卒業後、『女学雑誌』に訳文を寄稿するようになり、1892年9月、20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となる。翌年、交流を結んでいた北村透谷、星野天知の雑誌『文学界』に参加し、同人として劇詩や随筆を発表した。
生涯が望まれています。 (2021年3月)
家系
主な生い立ち
1872年3月25日(明治5年2月17日)、筑摩県第八大区五小区馬籠村[注 1](長野県を経て現在の岐阜県中津川市馬籠)に父・正樹、母・縫の四男として生まれた。
1878年(明治11年)神坂学校に入り、父から『孝経』や『論語』を学ぶ。
1881年(明治14年) 上京。泰明小学校に通い、卒業後は、寄宿していた吉村忠道の伯父・武居用拙に『詩経』などを学んだ。さらに三田英学校(旧・慶應義塾分校、現・錦城学園高等学校の前身)、共立学校(現・開成高校の前身)など当時の進学予備校で学び、明治学院本科(明治学院大学の前身)入学。在学中は馬場孤蝶、戸川秋骨、北村季晴、中島久万吉らと交友を結び、また共立学校時代の恩師の影響もありキリスト教の洗礼を受ける。学生時代は西洋文学を読みふけり、また松尾芭蕉や西行などの日本古典文学も読み漁った。明治学院本科の第一期卒業生で、校歌も作詞している。
1886年(明治19年) 父・正樹が郷里にて牢死。正樹は『夜明け前』の主人公・青山半蔵のモデルで、藤村に与えた文学的影響は多大だった。
明治学院24年度卒業写真、最後列左から2番目が藤村、4番目が戸川秋骨、中央列右から3番目が馬場孤蝶
『文学界』と浪漫派詩人