島原_(京都)
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「嶋原」はこの項目へ転送されています。長崎県の地名等については「島原」をご覧ください。
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島原(しまばら)は京都市下京区に位置する日本及び京都五花街で最古の花街の名称。「嶋原」とも書く。正式名は西新屋敷といい、6つの町(上之町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之町、揚屋町)で構成されている。島原は1976年に京都花街組合連合会を脱会し、現在は輪違屋のみが正式なお茶屋の鑑札を有し、置屋お茶屋の営業を行っている。
沿革角屋輪違屋

室町時代足利義満が現在の東洞院通七条下ルに許可した傾城町が日本の公娼地の始まりといわれる。桃山時代(1589年)には豊臣秀吉の許可を得て、原三郎左衛門らが二条万里小路(までのこうじ)に「二条柳町」を開設した[1]江戸時代になると六条付近に移されて「六条三筋町」と呼ばれるようになり、吉野太夫などの名妓が輩出した。ところが、1641年にはさらに朱雀野付近への移転が命ぜられ、以後「島原」と呼ばれた。「島原」の名称は、この移転騒動が島原の乱時の乱れた様子に似ていたためについたという説や、周りが田原であったため、島にたとえて呼ばれたという説など、諸説がある[2]

新しい土地の周りは壁や堀に囲まれ、出入り口として東の大門ができた[3]。島原は元禄期に最も栄えたが、立地条件が悪かったこと、また格式の高さが原因となって祇園町、祇園新地上七軒、二条などの遊里に人が流れ、その後は幾度かの盛衰を繰り返したものの、次第に衰えていった。廓の女性達は(通行手形が必要ではあるが)自由に廓の外へ出ることができ、一般人も(男女問わず)自由に出入りができた。清河八郎頼山陽のように、実母を「親孝行」として揚屋で遊ばせた例もあり、外部から「閉ざされた」遊所ではなかった。幕末には西郷隆盛久坂玄瑞新選組らが出入りしていた。1873年には、のちに歌舞練場となる島原女紅場が置かれた[4]

嘉永4年(1851)の大火で揚屋町以外の島原のほとんどが焼失し、祇園新地で仮営業をしていたが、大半が島原に戻ることなく街は寂れていった[5]。明治以後は公家武家の常連客がいなくなり、さらに窮状に置かれるものの「太夫道中」などの行事で支えていた。昭和初期までには居稼ぎ(店に住みこみ、登楼してくる客の相手をする)の娼妓本位の花街になっており[6]、街に古色は残るものの非常に寂れた状態となった[5]。昭和後期にお茶屋、太夫、芸妓の人数が減り、ついにはお茶屋組合が解散して普通の住宅地と化した。残存していた多くの建物や門も、取り壊しなどで姿を消し、現在は「大門」、「輪違屋」、「角屋」、「島原住吉神社」、「西門跡[7]」等や石畳に舗装された道がその面影や情緒をとどめているだけである。現在もお茶屋として営業を続けているのは輪違屋のみ。すでに揚屋としての営業は行っていないが、角屋は建築物としては今も日本に唯一残る揚屋造の遺構である[2]
島原の文化と太夫現在の島原太夫(如月太夫)戦前の島原太夫

江戸中期には炭太祇(たんたいぎ)が島原で不夜庵を主宰し、親交のあった与謝蕪村らとともに俳諧活動を行った[8]。また、その他にも島原の太夫や、文人らによる和歌などの文芸活動が盛んであったことを示す資料が多く残っている[9]

「太夫」とはもともと能楽歌舞伎の舞台で秀でた者に与えられた称号であり、最初は京都の女歌舞伎で活躍した女性が「太夫」(舞太夫、能太夫)などと呼ばれたものが、1629年に女歌舞伎が禁止されて以降、優れた技能、教養を持つ最高位の遊女の名として定着したものである[1]。また四条河原で能や舞に明け暮れた女性を「太夫」と呼んだ、とする説もある[10]。太夫は通称「こったい」とも呼ばれ[11]、置屋に所属して揚屋に派遣される(この形態が祇園等、他の花街に影響を与えた)。かつては正五位の地位をも与えられた最高位の遊女であった。太夫はもと御所の公家、皇族が相手であったため、教養に長けていなければならない。例えば、舞踊なら名取師範になれるくらいである。

能太夫、舞太夫をルーツに持つとされる島原の太夫にとって「舞踊」(ここでは「歌舞伎舞踊」または「上方舞」をさす)は必須である。島原の舞踊の流派は、江戸時代後期まで篠塚流、その後明治の初めまで井上流であった(三世井上八千代が当流派を「祇園の御留流」とするまで)が、後に花柳流に変わった。


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