島原大変肥後迷惑
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島原大変大地図 [注 1]

島原大変肥後迷惑(しまばらたいへんひごめいわく)とは、江戸時代1792年5月21日寛政4年4月1日)に肥前国島原(現在の長崎県)で発生した雲仙岳火山性地震およびその後の眉山山体崩壊(島原大変)と、それに起因する津波が島原や対岸の肥後国(現在の熊本県)を襲ったこと(肥後迷惑)による災害である。

犠牲者は約1万5000人に達し、日本史上最大規模の火山災害となった。新月の夜かつ大潮であったことで大きな被害になったとされる[1][2]。シミュレーションによれば、山体崩壊開始から終了までは 180秒程度と想定された[2]
推移
第一段階(前駆地震群)
[2]
1791年(寛政3年)11月頃から、雲仙岳西側で有感地震が多発[3]震源が徐々に普賢岳に向かっていった。
第二段階(普賢祠前の噴火-新焼溶岩の流出)[2]
1792年2月10日(寛政4年1月18日)、普賢岳で噴火が始まり、溶岩流火山ガスの噴出も見られるようになった(噴火場所は地獄跡火口[4][注 2]。溶岩は2か月掛けて2キロメートル、千本木と呼ばれた集落まで流れて止まった。穴迫谷(あなさこたに)と呼ばれる山中の谷を埋めたとされる[3]
第三段階(三月朔地震群-今村の地下水位上昇)[2]
1792年4月1日(寛政4年3月1日)から1週間ほど地震が群発し、普賢岳から火が噴き、吹き上げられた石は雨のごとく地面に降り注ぎ、また前に聳える眉岳・天狗岳(708メートル)に落石し、地割れが各所で起こった[5]。その後、地震は島原の近くに震源を移し、有感地震が続いた。4月21日からは、島原近辺での地震活動が活発になった[3]
第四段階(四月朔地震-眉山山体崩壊)[2]
馬蹄形に崩壊した山体5月14日までに群発地震は収まったが[3]、5月21日の夜、2度にわたる強い地震が起こった。5月21日午後8時頃に.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯32度48分 東経130度18分 / 北緯32.8度 東経130.3度 / 32.8; 130.3座標: 北緯32度48分 東経130度18分 / 北緯32.8度 東経130.3度 / 32.8; 130.3で発生したマグニチュード(M)6.4の地震が最大で、この時島原は震度6程度の揺れに襲われた[6]。地震により、眉山の南側部分が大きく崩れ、3億4000万立方メートル[7]に上る大量の土砂が島原城下を通り有明海へと一気に流れ込んだ。なお、崩壊前には楠平で地下水の異常な上昇があり、上昇に気が付いて避難した者もいた[3]。眉山崩壊の原因については、眉山の火山活動によって直接起こったものか、雲仙岳の火山性地震によって誘発されたものであるかは、現在でも定かではない[3]
第五段階(続く地震と湧水変化)[2]
崩壊後、上の原には自噴井を生じた。また、眉山には「六筋の堅割」が生じ泥水が噴き出した。六月朔日には、普賢岳山頂で再噴火。地震の度に眉山が2次崩壊した[2]
崩壊原因

諸説あり、未解明であるが火山爆発説は完全に否定されている[8]
地震崩壊説 - 大森房吉(1908)[9]

火山爆発説 - 駒田亥久雄(1913)[10]佐藤伝蔵(1923)[11][12]

局所的地すべり崩壊説 - 太田一也(1969)[13]

円弧地すべり説 - 片山信夫(1974)[14]

崩壊土砂量

1999年には古絵図から崩壊前の山体の復元が試みられた[3]。現在も残っている天狗山(現標高 695m)は当時 780mと推定され、溶岩ドーム状の山体であった。崩壊前後の断面図より4.4億立方メートルと推定された[3]。ただし、研究者により崩壊土砂量には差があり、4.4億立方メートル[7]、1.1 - 4.4億立方メートル[15]など諸説ある。
津波国土地理院に登録されている、眉山崩壊による津波・土砂災害の自然災害伝承碑の分布。同院のデータより抜粋して加工(データ)。

山体崩壊で大量の土砂が有明海になだれ込んできた衝撃で、10メートル以上の高さの津波が発生した。津波の第1波は約20分で有明海を横断して対岸の肥後天草に到達した[2]。大量の土砂は海岸線を870メートルも沖に進ませ、島原側が高さ6-9メートル、肥後側が高さ4-5メートルの津波であったという[16]。肥後の海岸で反射した返し波は島原を再び襲った。津波による死者は島原で約10,000人、対岸の熊本で5,000人を数えると言われている[5]。津波のエネルギーは崩壊した土砂の持っているポテンシャルの1/100から1/1000程度に過ぎないとされる[1]が、ここからも陸上に堆積した土砂の量が甚だ多かったことが判る。

肥後側の津波の遡上高は熊本市の河内、塩屋、近津付近で15-20メートルに達し、三角町大田尾で最高の22.5メートルに達した[17]。島原側は布津大崎鼻で57メートルを超えたとの記録がある[18]

島原大変肥後迷惑による死者・行方不明者は合計15,000人(うち約3分の1が肥後領側)におよび、有史以来日本最大の火山災害となった。島原地方には今も多くの絵図や古記録が残っている。都司嘉宣、日野貴之の研究によると合計15,000人としているが、熊本県側は5,158人としている[17]

この時に有明海に流れ込んだ岩塊は、島原市街前面の浅海に岩礁群として残っており、九十九島(つくもじま)と呼ばれている。これは地形学的に言うと「流れ山」と呼ばれる地形である。同じ長崎県の佐世保市から平戸市にかけて九十九島(くじゅうくしま)と呼ばれる群島があるが、島原市の九十九島とは別のものである。


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