みねやまちょう
峰山町
金刀比羅神社
峰山町旗峰山町章
廃止日2004年4月1日
廃止理由新設合併
大宮町、峰山町、網野町、丹後町、弥栄町、久美浜町→京丹後市
現在の自治体京丹後市
廃止時点のデータ
国 日本
地方近畿地方
都道府県京都府
郡中郡
市町村コード26481-4
面積67.45 km2
総人口13,850人
(2004年3月1日)
隣接自治体京都府大宮町、弥栄町、網野町、久美浜町
兵庫県但東町
町の木カエデ
町の花サツキ
峰山町役場
所在地〒627-8567
京都府中郡峰山町字杉谷889番地
外部リンク峰山町
峰山町(みねやまちょう)は、かつて京都府中郡にあった町。丹後半島の付け根に位置し、丹後国風土記の「天女の羽衣伝説」で知られた。2004年(平成16年)4月1日に大宮町・弥栄町・網野町・久美浜町・丹後町の5町と合併して京丹後市となった。丹後地方の地場産業である丹後ちりめん発祥の地として知られている。また機械金属工業の集積地でもある。
象徴峰山の町章
町章は、峰山町の「M」と「み」を図案化し、結びの線は町民の固い団結を意味し、両翼を広げた翼の形は町の飛躍や発展を表す羽ばたきの姿で表現された[1]。
町の木 はカエデ、町の花はサツキ、町の特産品として丹後ちりめん、地酒、みそ、しょうゆなどがしられた[1]。 丹後国は713年(和銅6年)に丹波国を分割して設けられた国だが(続日本紀)、峰山町周辺は「丹後国丹波郡丹波郷」(和名抄)であり、古代の丹波国の中心であった。 弥生時代前期の途中ケ丘遺跡 権現山の山頂には大和国金峯山の末社である蔵王権現が祀られたことから、戦国時代に金峯山になぞらえて「峯山」(嶺山)と名付けられたと推定される[4]。 京極氏は、関ヶ原の戦いの後、京極高知の代に信濃国飯田から12万3200石で丹後国に入国した。高知の没後、宮津藩、田辺藩、峰山藩に分かれることとなる。 峰山藩は、中世から京極氏の居城であった吉原山城
歴史1927年の北丹後地震における峰山町の被害
古代
中世・近世
享保年間(1716年?1736年)には絹屋佐平治(森田治郎兵衛)によって丹後ちりめんが生み出され、峰山藩の特産品となった。 1869年(明治2年)には峰山町の町の分合や改称が行われ、不断町、上町、織元町、室町、呉服町、浪花町、白銀町、泉町、御旅町、堺町、富貴屋町の11か町となったが、後に吉原町、古殿町、光明寺町、四軒町が加わって15か町となった[6]。この地名が現在も大字名の一部として引き継がれている[7]。 1889年(明治22年)4月1日に町村制が施行された際、峰山町と杉谷村が合併して改めて峰山町が発足した。1927年(昭和2年)3月7日の北丹後地震の際、峰山町における倒壊率は98.8%(1035戸中1006戸)、焼失率は83.5%(1035戸中849戸)、死亡率は24.3%(4584人中1103人)という大きな被害を出した[8][9]。 1955年(昭和30年)1月1日には峰山町・吉原村・五箇村・新山村・丹波村の1町4村が合併し、改めて峰山町が発足した。1979年(昭和54年)には増田桂一が峰山町長に初当選し、その後峰山町が合併で廃止されるまで25年間に渡って町長を務めた(7選)。 2004年(平成16年)4月1日に大宮町・弥栄町・網野町・久美浜町・丹後町の5町と合併して京丹後市となった。京丹後市発足後には峰山町役場が京丹後市役所のメイン庁舎として使用されている。京丹後市発足直後には峰山町長の増田が市長職務執行者(暫定市長)を務めている。 丹後半島の北、東西約40キロメートル、南北約20キロメートルの東北東から西南西にのびる地域は、一般に北丹後と呼ばれ、大部分は山地である。中央部を南北に流れる竹野川を境に、東側は標高500から600メートルの山地が連なる高原状地形、西側は峰山・網野山地、久美浜山地となっている。 竹野川は丹後半島では最大の川であり、京丹後市大宮町五十河から同市丹後町竹野(たかの)までの約31キロメートルを流れている。 峰山町は、この竹野川の中流、中郡盆地に開けた町である。町の面積は67.45平方キロメートル[1]。峰山町内には、鱒留(ますどめ)川、久次(ひさつぎ)川、小西川など、竹野川の支流がある。これらの川の流域には河岸段丘が見られる。 峰山町で最も高い山は南西にある磯砂山(いさなごさん)であり、西に久次岳、東北に小原山(おばらさん)がある。久次岳など西側の山は、凝灰岩などの第三紀の火山性の岩石に覆われている。磯砂山など南側の山は、花崗岩からなる急勾配の山であり、中郡盆地の周りは花崗岩の緩傾斜の山や丘陵となっている[10]。
近代
現代
地理旧峰山町中心部周辺の空中写真。1975年撮影の2枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
人口と世帯数人口の変遷
1970年(昭和45年)15,092人
1975年(昭和50年)15,066人
1980年(昭和55年)14,911人