岸部四郎
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きしべ しろう
岸部 四郎
本名岸部 四郎
別名義岸部 シロー 
生年月日 (1949-06-07) 1949年6月7日
没年月日 (2020-08-28) 2020年8月28日(71歳没)
出生地 日本京都府京都市
死没地 日本千葉県
身長187 cm
職業タレント俳優
ジャンルテレビドラマ映画
活動期間1969年 - 2014年
配偶者死別(離婚歴あり)
著名な家族兄:岸部一徳
事務所アン・ヌフ
公式サイト本人によるブログ
主な作品
テレビドラマ
遠山の金さん
西遊記
電車男 他その他
ルックルックこんにちは(2代目司会者) 他
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岸部 四郎(きしべ しろう、1949年昭和24年〉6月7日 - 2020年令和2年〉8月28日)は、日本タレント俳優司会者実業家1994年から2000年代中期頃を除き、岸部シロー名義も用いていた。元ザ・タイガースのメンバー。

京都府京都市出身。父は元憲兵。兄は同じくザ・タイガースのメンバーであった岸部一徳。甥に一徳の長男である岸部大輔がいる。京都市立近衛中学校卒業。
来歴・人物
ザ・タイガース時代

中学卒業後に印刷会社へ就職。のちに退職しバンドボーイとなる。

タイガースのデビュー後にしばらく音楽面でのアドバイザーを務めたあと、メンバーと渡辺プロダクションの援助で1968年(昭和43年)7月アメリカへ渡り、留学の名目で『ミュージック・ライフ』の音楽特派員として活動。

1969年(昭和44年)3月、タイガースから加橋かつみが脱退したため、兄・一徳(本名:修三)からの電話によって呼び戻され、新メンバーとなる。加橋の後釜としてギター[注 1]を担当するが、加入当初は実際には弾けず、弾く真似をしていた。また、タンバリンを演奏[注 2]したり、加橋のヴォーカルパートを引き継ぐ。岸部の加入は、事務所とメンバーの総意により決まったものである[1]。岸部が楽器経験無しでもタイガースに必要とされたのは、渡辺プロダクションが書いた“グループの危機を、一徳の弟が救う”という筋書きのためと言われている[1]

岸部の加入により、タイガースもユニフォームの常時着用をやめ、ステージのレパートリーではフォークソングやハードロックを取り入れるなど積極的にイメージチェンジを図り、それまでの「白馬に乗った王子様」的なアイドルのイメージより徐々に脱却。あえて積極的に近畿方言を話し、また当時のアイドルではタブーとされていたメガネを1970年頃から着用しだし、以後トレードマークとなった[1]

話術で実力を発揮し、京都出身の岸部がボソッとつぶやく関西弁がウケたことから、その後タイガースのライブでトークコーナーが設けられた[1]。そして司会を担当したステージでは軽快なトークを披露することで次第に好評を得た岸部は、その気さくなキャラクター性が受け入れられ、単独でのTV出演を果たす。ステージでは主に『花の首飾り』『ホリデイ』などそれまで加橋がソロを担当していた曲に加え、ドノヴァンなどのフォークソングも得意とした。

また1970年(昭和45年)には岸部一徳とのユニット「サリー&シロー」名義でもアルバムを発表。このころには、ある程度のリズムギターおよびタンバリンをこなせるようになっており、同年8月22日田園コロシアムにおけるコンサートや、1971年(昭和46年)1月24日日本武道館での解散公演では、実際に演奏しているのが映像から確認できる。
タレント活動

タイガース解散後(この頃に最初の妻と結婚)も岸部の人気は衰えず、1971年(昭和46年)、ブレッド&バターに合流した後、当時所属していた渡辺プロ(現:ワタナベエンターテインメント)のザ・ピーナッツ天地真理などのステージで司会や、当時ブームとなった青春ドラマなどの俳優として活動。以降つかみどころのない独特の存在感を魅力に、役者として様々なドラマや映画に出演するようになる[1]

1978年(昭和53年)、テレビドラマ西遊記』(日本テレビ系列)に出演し、関西弁を話す飄々とした沙悟浄役で注目された[1]

1984年(昭和59年)10月から、沢田亜矢子の後任として『ルックルックこんにちは』(日本テレビ系列)の司会に抜擢された[1]。同番組では“口数は少ないが淡々と進行する”スタイルで司会をしており、これは本人なりのポリシーだった[注 3][注 4]。その後、自己破産(後述)により降板する1998年4月まで13年半にわたって担当した。

1994年(平成6年)渡辺プロダクションから独立と再婚を機に本名の「四郎」に改名[2]
浪費癖・事業欲・自己破産・芸能活動自粛

生来貯金が苦手なうえに、人のよさが過ぎ連帯保証人を次々に引き受けたこと、自身も浪費癖があったこと、事業欲から無謀な挑戦(ヘリコプターのヘリコミューター、アメリカのディスコ買収等)を繰り返したこと、芸妓たちとのお茶屋遊びに興じたこと[注 5]などで多額の負債を抱えた。税理士の調査の結果、借金が1億円におよんでいたことが発覚(婦人公論のインタビュー記事によると実際は5億2000万円[3]、『大御所ジャパン!』によると事業失敗で約20億円)。自己破産に陥った。その影響で、1998年(平成10年)4月6日に突如『ルックルックこんにちは』を自主降板し、芸能活動自粛を余儀なくされる(『ルックルック』を自主降板したのは、かつて所属していた渡辺プロに圧力をかけられ、仕事を干される危機感を持ったためとされる)[4][5][6][7]。翌年3月に破産宣告[8]を受ける。

当時、他人の連帯保証が主因として、一種の被害者と報道されることが多かったが、もともと骨董のコレクションに傾倒し、破産以前に発売された雑誌『太陽』のコレクター特集で「俺の目利きはかなりのもの。コレクション売ったら購入価格以上になる。億はつかったけどこれは資産」、「骨董に嵌って破産するような奴は馬鹿」とコメントするなど、浪費癖が目立っていた。破産後に『文藝春秋』に寄せた手記でも、骨董品収集が破産の原因になったことを告白している。また、本人は過去に「(最初の)結婚後に子供ができた時点ですぐに家を買ったし、骨董品、オーディオ機器、自転車など、欲しいと思ったらポンポン買っていた」と語ったこともある[1]
自己破産以降・闘病生活

自己破産以降、その自虐的な出来事を売りものにして、バラエティ番組に出演することが多くなる(ただしレギュラー番組を持つには至らず)。「オレを誰や思てんねん! 元・金持ちやぞっ!!」など、自虐的な台詞もいとわない。『めちゃ2イケてるッ!』ではそれが顕著で、沙悟浄役であったことをネタにきゅうりで釣られたりしている。

2003年(平成15年)に脳内出血で倒れ、緊急入院。生死の境をさまようも一命を取りとめ、その後退院した。この後遺症視野狭窄を患い、右目の視野が3分の1しかないことを自身のブログで告白した。

2005年(平成17年)、ドラマ『電車男』に主役の伊藤淳史の父親役で出演したころから、旧芸名「岸部シロー」も使うようになっている。彼が詐欺師役で出演したドラマ『クロサギ』の最終話では、かつての自己破産経験を思わせる台詞を発している。

2007年(平成19年)4月6日、妻が心臓発作により急死。43歳没。同年9月11日発売の週刊女性のインタビューに応じて胸中を語った。

2008年(平成20年)、12012のシングル「MERRY GO WORLD」のPVに出演した。

2009年(平成21年)、身体の身動きが取れなくなり、救急車を呼んで入院。このころから体調が悪化し、メディアへの露出が困難となってしまう。

2011年(平成23年)4月16日、フジテレビONEで『岸部のロック』という、自らのロック体験を語る番組に出演[9]

2012年(平成24年)1月24日、沢田研二ライブツアー最終日の日本武道館公演で一徳に支えられながら登場、第2期ザ・タイガースメンバーが見守る中で『若葉のころ』を歌唱した[10]

2012年(平成24年)12月、『情報ライブ ミヤネ屋』に出演。同年2月に骨折で入院し、手術を受けて以降老人ホームで暮らす様子が映される。芸能活動からは事実上引退となった。

2013年(平成25年)12月27日、ザ・タイガースライブツアー最終日の東京ドーム公演に再び車椅子姿で登場、他のタイガースメンバーが見守る中で『イエスタデイ』を歌唱し、これによって、結成以来初めてタイガースの全てのメンバーが揃うこととなった[11]

2014年(平成26年)11月21日、新橋ヤクルトホールで行われた「森本太郎とスーパースター再結成15周年コンサート」に、兄の一徳、甥の大輔とともにゲスト出演[12]。一徳らの演奏に合わせて歌声を披露したのが、公の場で見せた最後の姿となった[1]

2020年(令和2年)8月28日、拡張型心筋症による急性心不全のため千葉県内の病院で死去。71歳没。その死は9月15日に報道された[13]
主なギャグ

この節には複数の問題があります。改善ノートページでの議論にご協力ください。

出典が不足しています。存命人物の記事は特に、検証可能性を満たしている必要があります。(2018年6月)


独自研究が含まれているおそれがあります。(2018年6月)


雑多な内容が羅列されています。(2018年6月)




「今何時? ビーフ味!」「ウシウシ」
明星ラーメンビーフ味のCM(昭和47年)に出演したときのセリフ。当時子供たちを中心に流行した。「ウシウシ」は「ウッシッシ」とは異なる。

「オレを誰や思てんねん! 元・金持ちやぞっ!!」
バラエティ番組に出演するときに、若手芸人・タレントからツッコまれるときに言い返すセリフ。

「もう、金しかないなぁ!」
ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』で再三再四ドッキリに引っかかったときにダウンタウンらに言い放ったセリフ。


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