.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}岸田(きしだ) 國士(くにお)
色紙を書く岸田國士(左)と杉村春子
誕生 (1890-11-02) 1890年11月2日
日本・東京市四谷区(現・東京都新宿区)
死没 (1954-03-05) 1954年3月5日(63歳没)
日本・東京都文京区本郷
墓地多磨霊園
職業劇作家・小説家・評論家・翻訳家・演出家
言語日本語
最終学歴陸軍士官学校・東京帝国大学中退[1]
ジャンル新劇
代表作牛山ホテル・チロルの秋・暖流・双面神
ウィキポータル 文学
ウィキポータル 舞台芸術
テンプレートを表示
岸田 國士(きしだ くにお、1890年(明治23年)11月2日 - 1954年(昭和29年)3月5日)は、日本の劇作家・小説家・評論家・翻訳家・演出家。
代表作に、戯曲『チロルの秋』(1924年)、『牛山ホテル』(1929年)、小説『暖流』(1943年)、『双面神』(1953年)など。
妹の勝伸枝
は作家、本名は延原克子で翻訳家・延原謙の妻。長女は童話作家の岸田衿子、次女は女優の岸田今日子[2]、甥に俳優の岸田森がいる。映画脚本『ゼンマイの戯れ』(1926年)もある[3][4]。
経歴の長男として生まれる。岸田家は旧紀州藩士の家系であった。
陸軍士官学校を経て少尉に任官、久留米の歩兵第48連隊に配属される。
文学への思い止み難く、父の勘当を受けながらも軍籍を離れ、28歳で東京帝国大学文科大学に選科生として入学する。フランス文学や近代演劇を学び、鈴木信太郎・辰野隆・豊島与志雄・関根秀雄らと親交をむすぶ。著名な訳書はジュール・ルナール『にんじん』、『博物誌』、『ぶどう畑のぶどう作り』などで、今日でも重版されている。
仏領インドシナを経由してパリに遊学、ジャック・コポーが主宰する小劇場ヴィユ・コロンビエ座などに出入りし、当時フランスで盛んになっていた演劇純粋化運動に接していたが、1922年の父の死去により、翌年帰国する。
1932年新設された明治大学文芸科教授となる。1937年に顧問を務めていた築地座を解消し、新たに文学座を岩田豊雄・久保田万太郎らと創設する[2]。
1940年から1942年まで大政翼賛会文化部長を務め[2]、太平洋戦争後の1947年にGHQにより公職追放となる。
1954年、文学座の上演『どん底』(原作マクシム・ゴーリキー)の演出に携わっていたが、3月、舞台稽古中に脳卒中に襲われ病院に運ばれたが翌日死去。63歳没。
年譜
1890年(0歳) - 11月に東京四谷右京町で近衛砲兵連隊付大尉、岸田庄藏・楠子の長男として生まれる。
1897年(7歳) - 東京 四谷尋常小學校に入学。
1899年(9歳) - 父の転勤に伴い、名古屋市棣棠尋常小学校(現・名古屋市立山吹小学校)へ転校。
1902年(12歳) - 名古屋第二高等小学校に入学。
1904年(14歳) - 9月、名古屋陸軍地方幼年学校に入学。
1907年(17歳) - 9月、東京にある陸軍中央幼年学校に進学するが、軍隊生活・軍人の気風に反発を覚える。この頃より、フランス文学に興味を持つようになる。
1910年(20歳) - 6月、幼年学校を卒業し、士官候補生として久留米歩兵第48連隊に配属となる。12月、陸軍士官学校へ進学する。
1912年(22歳) - 6月、士官学校を卒業。7月、見習士官として久留米連隊に復帰。12月、少尉に任官。
1914年(24歳) - 11月、休職願を出して、上京。
1917年(27歳) - 4月、東京帝国大学文科大学仏文科選科に入学。鈴木信太郎・辰野隆・豊島与志雄らと知悉を得る。
1919年(29歳) - 8月、渡仏を計画し、貨物船にて神戸より台湾へ渡航。高雄から香港へ渡る。同地にて三井物産仏印出張所長付通訳の職を得、ベトナム北部の港湾都市ハイフォンに赴任、そこで3ヵ月を過ごした後、マルセイユへ向けて渡航。
1920年(30歳) - 1月、マルセイユに到着後、パリへ移動。生活のため、はじめ日本大使館、後に国際連盟事務局に嘱託として勤務。フランス演劇史を研究する。
1922年(32歳) - 12月、父の訃報を受け、帰国準備にかかる。
1923年(33歳) - 7月、帰国。中野野方町に住む。8月、豊島与志雄に処女戯曲『古い玩具』を見せ、意見を求め山本有三に紹介される。
1924年(34歳) - 山本有三編集の「演劇新潮」3月号に『古い玩具』を発表し、注目される。戯曲『チロルの秋』を「演劇新潮」9月号に発表。11月、『文藝時代』同人となる。
1925年(35歳) - 戯曲『軌道』を「演劇新潮」新年号、戯曲『命を弄ぶ男ふたり』を「演劇新潮」2月号、戯曲『ぶらんこ』を「演劇新潮」4月号、戯曲『紙風船』を「文藝春秋」5月号に発表。
1927年(37歳)- 鳥取県米子市出身の村川秋子[5]と結婚。
1929年(39歳) - 戯曲『牛山ホテル』を「中央公論」新年号に発表。長女・岸田衿子が生まれる。
1930年(40歳) - 戯曲『ママ先生とその夫』を「改造」10月号に発表。次女・岸田今日子が生まれる。
1931年(41歳) - 戯曲『淺間山』を「改造」7月号に発表。
1935年(45歳) - 戯曲『歳月』を「改造」4月号に発表。
1936年(46歳) - 長編小説『落葉日記』を「婦人公論」6月号より連載。
1937年(47歳) - 9月6日、久保田万太郎、岩田豊雄と共に劇団文学座を結成する。