岸 洋子
文化実業社『新婦人』より、1965年
基本情報
出生名小山 洋子
生誕1935年5月23日
出身地 日本
死没 (1992-12-11) 1992年12月11日(57歳没)
学歴東京藝術大学大学院声楽専攻科修了
ジャンルシャンソン
カンツォーネ
職業歌手
活動期間1962年 - 1992年
エディット・ピアフ
岸 洋子(きし ようこ、1935年(昭和10年)5月23日 - 1992年(平成4年)12月11日)は、日本のシャンソン歌手、カンツォーネ歌手。所属レコード会社はキングレコード[1]。本名は小山 洋子(こやま ようこ)。山形県酒田市出身。 姉に連れられて行った宝塚歌劇団の声楽教授を務めた加藤千恵(酒田市名誉市民)が開設したボーカルスタジオで音楽と出会う。俳優成田三樹夫は中学・高校の同級生[2]。 東京藝術大学に進学し、在学中に二期会研究生となり、オペラ歌手を目指していたが[3]、心臓神経症のため断念する。病床で聴いたエディット・ピアフのアルバムに感動して、1959年(昭和34年)、NHKのオーディションに合格。シャンソン歌手の道に進んだ[3]。 1961年(昭和36年)、キングレコードの専属となり、『たわむれないで』でレコード・デビュー[3]。石井好子が設立した石井音楽事務所に所属する[4]。64年、『夜明けのうた』で日本レコード大賞歌唱賞を受賞し、一躍、実力派の流行歌手として脚光を浴びた[3]。翌年には『恋心』もヒット[3]。その後は、テレビ番組の司会やミュージカルなど幅広い活動を続ける[3]。 1970年(昭和45年)9月末、酒田市のイベント会場で倒れ、緊急入院。膠原病と診断され、闘病生活を余儀なくされる[5]。この年、『希望』が約70万枚売り上げる大ヒットとなり、2度目のレコード大賞歌唱賞を受賞したが[3]、入院中のため授賞式には出席できず、『第21回NHK紅白歌合戦』への出場も辞退した。高熱にうなされ闘病半年余、歌への執念が生への活力につながり、奇跡的に再起を遂げ[2]、71年には『甦える明日』などをレコーディング[3]、加えて『希望』が「第43回選抜高校野球大会」の入場行進曲に採用された。以後は、レコード発売や公演数は減ったものの、活動は重ねた[3]。 1989年(平成元年)、歌手生活30周年を記念して全国ツアーを展開。公演の途中、激痛に襲われ打ち切りとなったが「同じ難病をかかえる人たちの心の支えになるためにも、私は歌い続ける」と91年にカムバックし、その秋には東京厚生年金会館の舞台に立った[3]。 1992年11月19日、自宅玄関で転倒し肋骨を骨折損傷し[3]、膠原病の後遺症悪化による腎臓病治療のため再入院した。入院中も年末のディナーショーの準備を行い、当初12月12日に退院が決まっていた。しかし、退院2日前の12月10日に意識不明の重体となり、翌11日に敗血症のため急死した[3]。57歳没。生涯独身だった。 没後に故郷の酒田市にて「岸さんの楽曲を歌い継ぎ、その功績を多くの人に知ってもらいたい」として『岸洋子を歌いつぐ会』が結成され、活動が続けられている[6]。 日本のシャンソン界において越路吹雪と人気を分け、「魅せる越路、聴かせる岸」と評価されていた。
来歴・人物
略歴
山形県立酒田東高等学校卒業。
1958年:東京藝術大学大学院声楽専攻科修了。
1961年:シャンソン歌手としてキングレコードと契約。
1962年:『たわむれないで』でレコード・デビュー。
1964年:『夜明けのうた』で第6回日本レコード大賞歌唱賞を受賞。
1969年:芸術祭優秀賞を受賞。
1970年:酒田市のイベント会場で倒れ、緊急入院。膠原病と診断され、闘病生活を余儀なくされる。
1971年:膠原病を一時克服、退院して再起する。
1983年:自叙伝『さくらんぼの楽譜』を出版。
1984年:歌手生活25周年記念リサイタルを開く。芸術祭優秀賞を受賞。
25周年のための歌は「アンデスの風になりたい」(作曲・小島常男 作詞・とべあきよ)。この曲はサンリオ出版『月刊詩とメルヘン』(現在は廃刊)に出ていた詩に、小島常男
1992年12月11日:敗血症のため急死。57歳没。
代表曲
夜明けのうた BS-7044
恋心 BS-7120
想い出のソレンツァーラ
年度/放送回回曲目出演順対戦相手備考
1964年(昭和39年)/第15回初夜明けのうた08/25立川澄人
1965年(昭和40年)/第16回2恋心13/25アイ・ジョージ
1966年(昭和41年)/第17回3想い出のソレンツァーラ08/25立川澄人(2)
1967年(昭和42年)/第18回4わかっているの11/23フランク永井
1968年(昭和43年)/第19回5今宵あなたが聞く歌は17/23春日八郎
1969年(昭和44年)/第20回6夜明けのうた(2回目)10/23坂本九
1971年(昭和46年)/第22回7希望05/25西郷輝彦
(注意点)
対戦相手の歌手名の( )内の数字は、その歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある( )はトリ等を務めた回数を表す。
曲名の後の(○回目)は、紅白で披露された回数を表す。
出演順は「(出演順) / (出場者数)」で表す。