岸惠子
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「岸恵子」は女優の岸恵子について説明しているこの項目へ転送されています。競艇選手については「岸恵子 (競艇選手)」をご覧ください。

きし けいこ
岸 惠子
『映画情報』1956年11月号より
生年月日 (1932-08-11) 1932年8月11日(91歳)
出生地 日本神奈川県横浜市
職業女優文筆家
ジャンル映画・テレビドラマ・舞台
活動期間1951年 -
配偶者イヴ・シャンピ1957年 - 1975年
主な作品
テレビドラマ
沿線地図
夕暮れて』映画
君の名は[1]
女の園[1]
『約束』
雨のアムステルダム
黒い十人の女
怪談
細雪[1]

 受賞
日本アカデミー賞
最優秀主演女優賞
2002年かあちゃん
優秀助演女優賞
2003年たそがれ清兵衛
ブルーリボン賞


主演女優賞

1960年おとうと

その他の賞
毎日映画コンクール
田中絹代賞
1990年

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岸 惠子(きし けいこ、1932年昭和7年〉8月11日[1] - )は、女優文筆家。岸恵子の表記もある。身長161cm舞プロモーション所属。映画の代表作は『君の名は』『雪国』『おとうと』『約束』『悪魔の手毬唄』『細雪』など。
来歴

神奈川県横浜市神奈川区生まれ。1945年5月の横浜大空襲で被災。横浜市南区庚台に、1955年頃まで家族と居住、その後、同市神奈川区妙蓮寺[要曖昧さ回避]に転居。高校在学中に小牧バレエ団に通う。神奈川県立横浜平沼高等学校卒業[1] (48期[2])。

もともとは小説家志望で川端康成を耽読した。高校時代に観た『美女と野獣』に魅せられ、映画に興味を持ち、田中敦子(小園蓉子)と松竹大船撮影所を見学するうちに、吉村公三郎にスカウトされ[3]、断ったが後に「本物の女学生が欲しい」と頼まれて1本だけの約束で、1951年に大学入学までという条件で松竹に入社し、映画『我が家は楽し』でデビューするがヒットしてそのまま女優になった。

1952年には『坊ちゃん重役』で鶴田浩二佐田啓二の相手役を務める。5月、松竹の看板スターであった鶴田が、戦後のスタープロ第1号となる新生プロを設立して独立。第1作として、新東宝配給『弥太郎笠』の制作にあたり、鶴田の相手役のヒロインとして岸にオファーを出すが、松竹は拒否したため岸は辞表を出す。結局松竹が折れて、岸は映画に出演。続いて、新生プロの『ハワイの夜』でも鶴田と共演しヒットとなる。この頃、鶴田との恋愛関係が報道されたが、松竹に強引に別れさせられた。

1953年から1954年にかけて映画『君の名は』3部作が大ヒット。主人公・氏家真知子のストールの巻き方を「真知子巻き」と呼んでマネる女性が出るほどだった(ちなみに北海道のあまりの寒さに、私物のストールを使用した岸のアドリブである)。岸恵子自身は、『君の名は』ばかりが長期間話題にされることを疎ましく感じ続けた。以降、松竹の看板女優となった。

1954年木下惠介の『女の園』の撮影中、岸と久我美子は「女だけのプロダクションをつくろう」と意気投合した。「でも二人だけじゃ寂しいわね」と久我が言うと、岸は「有馬稲子っていう威勢のいい人がいるじゃない」と提案した[4]。同年4月16日、久我、有馬、岸は「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立[5]

1955年5月14日、シンガポールで第2回東南アジア映画祭(現・アジア太平洋映画祭)が開幕。日本からは、岸と佐田啓二が共演した『亡命記』など5本の長編映画が出品された。5月19日、『亡命記』が上映。最終日の5月21日、岸は最優秀女優賞を受賞した[6][7][4]。映画祭で『亡命記』を見たデヴィッド・リーンは次回作『風は知らない』に岸に出てもらうため、同年6月3日、原作者のリチャード・メイソンとともにに来日。ふたりで横浜の岸の自宅を訪れた。同年6月18日、松竹、東和映画、にんじんくらぶの三者は話し合い、日英合作映画となる『風は知らない』の主演を岸に決定した[8]。同年12月31日、岸は英語をマスターするためロンドンへ発った[9]

レスターシャーの学校で英語の特訓を受けていた1956年1月、プロデューサーを予定していたアレクサンダー・コルダとリーンとのあいだで意見が合わなくなり、映画の制作は延期された[10][注 1]。延期の通知が松竹に届いたちょうどその頃、松竹は来日中のフランスの映画監督イヴ・シャンピと日仏合作映画『Typhon sur Nagasaki(長崎の台風)』の製作の準備をしていた。ダニエル・ダリュージャン・マレーが出演することもすでに決まっていた。リーンと同じく東南アジア映画祭で『亡命記』を見ていたシャンピは松竹を通じて出演依頼の電報を岸に送った。岸はシャンピの『悪の決算』が好きで二度も見ており、出演を快諾。同年1月16日、岸の起用が早々に内定した[11]。岸はそのままフランス語習得のためパリに移った[9]。『Typhon sur Nagasaki(長崎の台風)』は「長崎に台風は上陸しない」と松竹からクレームが入り[12]1956年9月、『忘れえぬ慕情』のタイトルで日本で公開された。

1957年4月29日、日本を出国。同年5月、シャンピと結婚した[13][1][注 2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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