logo岸和田城
(大阪府)
別名岸ノ和田城、滕城、蟄亀利城、千亀利城
城郭構造輪郭式平城
天守構造複合式望楼型5重5階(慶長二年、1597年築)
複合式層塔型5重5階(元和五年、1619年改)
現在:連結式望楼型3重3階、復興天守(昭和29年、1954年再)
築城主信濃泰義か
築城年応永年間(1394年-1428年)
主な改修者三好実休、小出秀政、岡部宣勝
主な城主小出氏、岡部氏、三好氏
廃城年明治4年(1871年)
遺構石垣、堀
指定文化財大阪府史跡・名勝(本丸庭園)
再建造物復興天守、櫓・門
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度27分31.74秒 東経135度22分14.81秒 / 北緯34.4588167度 東経135.3707806度 / 34.4588167; 135.3707806 (岸和田城)
岸和田城(きしわだじょう)は、大阪府岸和田市岸城町にあった日本の城。別名千亀利城(ちきりじょう)。江戸時代には岸和田藩の藩庁が置かれた。本丸庭園は国の名勝[1][2]、城跡は大阪府の史跡に指定されている。本丸および二の丸一帯の4.9haは千亀利公園として岸和田市が管理している。 延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)の湊川の戦いで楠木正成の部下として活躍した岸和田治氏という武将がおり(『岸和田治氏軍忠状』)、おそらくその一族によって1400年までに岸和田が開拓されたと見られる(応永7年9月28日『足利義満御判御教書』(『石清水文書』))[3]。しかし、その頃はまだ城廓と呼べるものはなかった[4]。
概要
その後『日本城郭大系』によると信濃泰義によって現在地に移築されたとしている。
羽柴秀吉の紀州征伐の拠点として再築城され、その急ごしらえで造られていたものを、小出秀政が5重天守を上げる本格的な構えとした。松平康重の代に総構えと城下が整備され、岡部宣勝の頃、城の東側に2重、西側に1重の外堀と寺町が増築されている。文政10年(1827年)に天守を焼失。以降再建されないまま、明治4年(1871年)に廃城とされ、まもなく破却された。
岸和田城は猪伏山(いぶせやま)と呼ばれた小高い丘の上にあり、本丸と二の丸を合せた形が、機の縦糸を巻く器具「縢」(ちきり)に似ていることから蟄亀利城(後に千亀利城)と呼ばれるようになった。城内にある岸城神社は千亀利と「契り」とをかけて、縁結びの神社として知られている。桜の季節は花見の名所となり、大阪みどりの百選に選定されている[5]。
日本100名城の選定対象となるものの、検討の結果、選定されなかった。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(161番)に選定された。 一次史料からは、楠木正成の部下だった南朝の岸和田治氏という武将もしくはその親族が14世紀に岸和田を開拓した様子が見られる[3]。その後、1400年までには敵である室町幕府の足利義満の手に落ちた[3]。しかし、これらの文書には岸和田に城が築かれたという記述はない。 かつては、楠木正成の甥和田高家という人物が岸和田城を築城したという伝説があった。しかし、これらの文献の出典を遡っても江戸時代初期にまでしか到達せず[6]、しかも岸和田に城があったことを示す最初の一次史料は後述の永禄元年(1558年)に三好氏が同城に入ったことを記した浄心院快栄書状(永禄元年12月12日付、京都府立総合資料館所蔵「板原家文書」)まで下ることになる。
沿革
楠木氏の時代