この項目では、戦後初期の総理大臣「きし のぶすけ」について説明しています。合唱指揮者「きし しんすけ」については「岸信介 (指揮者)」をご覧ください。
日本の政治家岸 信介きし のぶすけ
生年月日1896年11月13日
出生地 日本 山口県吉敷郡山口町(現:山口市)
没年月日 (1987-08-07) 1987年8月7日(90歳没)
死没地 日本 東京都新宿区(東京医科大学病院)
出身校東京帝国大学法学部卒業
前職商工省官僚
所属政党(翼賛政治会→)
(護国同志会→)
(無所属→)
(日本再建連盟→)
(自由党→)
(無所属→)
(日本民主党→)
自由民主党
称号正二位
大勲位菊花大綬章
勲一等旭日桐花大綬章
法学士(東京帝国大学・1920年)
配偶者岸良子(従妹)
子女長男:岸 信和
長女:安倍洋子
親族佐藤信寛(曽祖父)
佐藤信彦 (漢学者)(祖父)
佐藤秀助(父)
佐藤市郎(兄)
佐藤栄作(弟)
岸 信政(養父・伯父)
安倍晋太郎(娘婿)
安倍寛信(孫)
安倍晋三(孫)
岸 信夫(孫)
岸信千世(曽孫)
佐藤寛子(従妹)
佐藤信二(甥)
サイン
第56-57代 内閣総理大臣
内閣第1次岸内閣
第1次岸改造内閣
第2次岸内閣
第2次岸改造内閣
在任期間1957年2月25日 - 1960年7月19日
天皇昭和天皇
内閣総理大臣臨時代理
内閣石橋内閣
在任期間1957年1月31日 - 1957年2月25日
天皇昭和天皇
第79-80代 外務大臣
内閣石橋内閣
第1次岸内閣
在任期間1956年12月23日 - 1957年7月10日
国務大臣
内閣東條内閣
在任期間1943年10月8日 - 1944年7月22日
第23代 商工大臣
内閣東條内閣
在任期間1941年10月18日 - 1943年10月8日
その他の職歴
衆議院議員
旧山口2区
当選回数 9回
(1942年5月1日 - 1943年10月8日[1])
(1953年4月20日 - 1979年9月7日)
第3代 自由民主党総裁
(1957年3月21日 - 1960年7月14日)
初代 自由民主党幹事長
(総裁: 鳩山一郎)
(1955年11月 - 1956年12月)
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岸 信介(きし のぶすけ、1896年〈明治29年〉11月13日 - 1987年〈昭和62年〉8月7日)は、日本の政治家、官僚。1957年から1960年まで内閣総理大臣(第56・57代)を務めた。位階勲等は正二位大勲位。出生名は佐藤 信介(さとう のぶすけ)。
他満洲国総務庁次長、商工大臣(第24代)、衆議院議員(9期)、自由民主党幹事長(初代)、自由民主党総裁 (第3代) 、外務大臣(第86・87代)、内閣総理大臣臨時代理、皇學館大学総長 (第2代) を歴任した。東洋パルプ、日本再建連盟の会長も務めた。A級戦犯被疑者として収監されるが、不起訴となったのち米国CIA(中央情報局)のエージェントとして活動し[2][3][4]、戦後にも権力を得た。1964年から1972年まで内閣総理大臣を務めた佐藤栄作の兄。 旧制山口中学校[5]、旧制第一高等学校を経て[6]、東京帝国大学卒業後、農商務省、商工省にて要職を歴任。建国されたばかりの満洲国では国務院高官として満洲産業開発五カ年計画を手がけ、「弐キ参スケ」の一角を占める。その後、日本の商工省に復帰し、次官に就任する。東條内閣では商工大臣として入閣し、のちに無任所の国務大臣として軍需省の次官を兼任する。昭和戦前は「革新官僚」の筆頭格として陸軍からも関東軍からも嘱望された[7]。 東條英機内閣の太平洋戦争開戦時の重要閣僚であったことから、極東国際軍事裁判ではA級戦犯被疑者として3年半拘留されたが、不起訴のまま釈放されている。他の戦争指導者同様、公職追放は免れなかったが、それも東西冷戦の影響による米国の方針変更によりサンフランシスコ講和条約発効とともに解除される。 終戦後は東洋パルプの会長を務めていたが、公職追放が解除されると日本再建連盟の設立や日本社会党への入党を模索するなど政界復帰を目指し、弟の佐藤栄作も属する吉田自由党に入党して政界に復帰する。しかし、対米追従姿勢の吉田茂と対立して除名、日本民主党の結党に加わり、保守合同で自由民主党が結党されると幹事長となった。石橋内閣にて外務大臣に就任する。首班石橋湛山の病気により臨時代理を務め、石橋内閣が総辞職すると後任の内閣総理大臣に指名され、日米安保体制の成立に尽力し、60年安保も乗り切った。昭和54年の政界引退後も後継者の福田赳夫などを通じて自民党右派の象徴として政界に影響力を行使し、晩年は「昭和の妖怪」ともあだ名されつつ、統一教会と連携して自主憲法制定運動やスパイ防止法制定運動に尽力。また女婿の安倍晋太郎の首相就任を目指していた[8][9]。 位階は正二位、勲等は大勲位。皇學館大学総長(第2代)なども務めた[注釈 1][注釈 2]。第61・62・63代内閣総理大臣佐藤栄作は実弟。また長女・洋子は安倍晋太郎に嫁いだ。洋子の次男は第90・96・97・98代内閣総理大臣安倍晋三[12]、三男は防衛大臣を務めた岸信夫[13]。 山口県吉敷郡山口町八軒家(現山口市)に、山口県庁官吏であった佐藤秀助と茂世(もよ)夫妻の第5子(次男)として生まれる(本籍地は山口県熊毛郡田布施町)[注釈 3]。信介が生まれた時、曽祖父の佐藤信寛もちょうど山口に来ており、非常によろこんで、早速“名付親になる”といって自分の名前の1字を取って「信介」という名が付けられた[15][16]。数え年3歳になったころ、父親の秀助は勤めをやめて、郷里に帰り、酒造業を営むようになった[17]。 秀助・茂世夫妻は、本家のある田布施町上田布施中西田縫のすぐそばの岸田で造り酒屋を営んだ(佐藤家は酒造の権利を持ち、母が分家するまでは他家に貸していた)[18]。 岡山市立内山下小学校から[19][20]岡山中学校に進学したが、学費や生活費の面倒を見ていた叔父の佐藤松介(医師・岡山医学専門学校教授)が肺炎により急逝したため、2年と1ヶ月足らずしかいることが出来なかった[21]。山口に戻り、山口中学校に転校。中学3年生の時、婿養子だった父の実家・岸家の養子となる。 1914年(大正3年)、山口中学校を卒業する。間もなく上京して高等学校受験準備のため予備校に通った[注釈 4]が、勉強より遊び癖の方がつきやすく、受験勉強そっちのけでしばしば活動写真や芝居を見に行ったりした[22]。第一高等学校の入学試験の成績は最下位から2、3番目だった[22]が、高等学校から大学にかけての秀才ぶりは様々に語り継がれ、同窓で親友であった我妻栄、三輪寿壮とは常に成績を争った。 1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部に入学。法学部の入学試験はドイツ語の筆記試験だけで、難なく合格した[23]。大学時代は精力を法律の勉強に集中し、ノートと参考書のほか一般の読書は雑誌や小説を読む程度で、一高時代のように旺盛な多読濫読主義ではなく、遊びまわることもほとんどなかった[15][23]。
概説
生涯
生い立ち
学生時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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