岳温泉
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青森県の「嶽温泉」とは異なります。

岳温泉
岳温泉の温泉街入口
温泉情報
所在地福島県二本松市
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯37度36分29.3秒 東経140度21分21.6秒 / 北緯37.608139度 東経140.356000度 / 37.608139; 140.356000座標: 北緯37度36分29.3秒 東経140度21分21.6秒 / 北緯37.608139度 東経140.356000度 / 37.608139; 140.356000
交通公共交通:JR二本松駅から福島交通路線バスがある
車 - 東北自動車道二本松ICから国道459号
泉質酸性泉
泉温(摂氏)68 °C
外部リンク岳温泉観光協会 公式ウェブサイト
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岳温泉(だけおんせん)は福島県二本松市(旧国陸奥国明治以降は岩代国)にある活火山安達太良山の中腹にある温泉1955年(昭和30年)に国民保養温泉の一つに指定された[1]

岳温泉旅館協同組合は、何か目玉になるものを作ろうということで、「ミニ独立国」ブームにあやかり、1982年(昭和57年)4月28日ニコニコ共和国を「開国」した。
泉質

単純
酸性泉

源泉温度68℃

豊富な湯量


効能

胃腸病・
神経痛

※注 : 効能は万人にその効果を保証するものではない
温泉街岳温泉神社

源泉安達太良山直下にあるくろがね小屋近辺にある。そこから温泉街の距離は8kmも離れており、引湯管を用いて湯を供給している。

普段は透明なお湯であるが、週に一度だけ乳白色のにごり湯になり、ミルキーデイとよばれ岳温泉名物の一つとなっている。[2]ミルキーデイは基本的に毎週月曜日となることが多いが、悪天候や諸事情により日程がずれこむことがある。

源泉は硫黄をはじめとする温泉成分が濃いため、空気に触れるとすぐに温泉が流れる樹脂パイプ内に湯花が付着してしまい、放っておくとパイプが詰まり温泉街にお湯が届かなくなる。湯守(ゆもり)と呼ばれる人たちによって週に一度、パイプ内の湯花を落とす作業を行う。これを湯花流しといい、冬でもスノーシューを履いて源泉地帯まで歩いていき、雪の中から源泉や点検口を掘り出して湯花流しを行っている。湯花流しをすることで、透明なお湯が乳白色のにごり湯になり、普段よりも一層なめらかなお湯になる。

高村光太郎の『智恵子抄』に詠われた安達太良山の広い斜面にあり、同じく詠われた阿武隈川を見下ろせる。温泉街の一角に、岳温泉神社がある。
歴史
開湯からの歩み

日本三代実録』の貞観5年(863年)10月29日の条の「小結温泉に従五位下を授ける」、また『日本紀略』の寛平9年(897年)9月7日の条にある「小陽日温泉に正五位下を授ける」とある温泉(小結温泉や小陽日温泉(こゆい温泉))は岳温泉を指しているといわれ、平安時代には京都でも知られていた[1]

江戸時代中期までは「陽日(ゆい)温泉」と呼ばれていて源泉地付近に温泉街があり、番所や藩主御殿があったほか湯女も許可されるなど、歓楽温泉場として遠くは水戸などからも来湯する客で賑わいを博していた。しかし1824年(文政7年)8月に土石流によって温泉街が埋まり、200人を超す死傷者を出す大惨事となった(岳山変事または岳山崩れ)[3]。その翌年の1825年(文政8年)に現在地より少し北の、陽日温泉から見て湯川(阿賀野川水系の湯川とは別の川である)の下流に当たる場所(現在の塩沢温泉付近)に移転して「十文字岳温泉」を名乗り、温泉街の高台に藩主御殿や温泉神社が設けられ、中心地に総檜造り2階建ての旅館14軒と共同浴場3軒、他に茶屋・商店・工房が軒を連ねる、いわば温泉テーマパーク型温泉地として再建された。この時から引湯管を用いた温泉供給が始まった。

十文字岳温泉はそれからしばらく栄えたが、戊辰戦争の際に薩長を中心とした軍勢の拠点になることを防ぐため、温泉街は二本松藩によって焼き払われた。その後、1870年(明治3年)に現在地の南西に当たる別地に「深掘温泉」として温泉街が再建されたが、明治維新の動乱期ということもあって過去の温泉街のような賑わいはなく、民家を改装した小さな旅館9軒と共同浴場2軒、湯治客向けの店4軒の素朴な温泉場となった。それでも近在近郷の湯治客に親しまれていたが、1903年(明治36年)10月に旅館からの失火による火災で再び全滅した[4]
温泉街の再建

2年後の1906年(明治39年)に地元の有志17名が岳温泉株式合資会社を設立し、国有林を払い下げてもらい、道路の整備に加え旅館・商店・共同浴場を設置して現在の岳温泉の原型を作るが、1923年(大正12年)に経営不振で倒産した[4]。その後台湾開発で財を築き台湾商工会議所の元会頭も務めた実業家の ⇒木村泰治(1870?1961) が投資価値ありと判断して、岳温泉株式合資会社の負債を肩代わりし、土地と温泉の権利一切を6万円で買収した[4]。そして1948年(昭和23年) に湯元から管を4000本以上つないで引湯し、温泉街を再建した[5]

1955年昭和30年)8月24日国民保養温泉地に指定。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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