岩鼻火薬製造所
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岩鼻火薬製造所跡(昭和22年(1947年))。東に井野川、南に烏川が流れる。

岩鼻火薬製造所(いわはなかやくせいぞうしょ)は、群馬県西群馬郡岩鼻町(現・高崎市岩鼻町)にあった日本陸軍火薬工廠。現在跡地には北から順に国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構高崎量子応用研究所、群馬の森群馬県立歴史博物館群馬県立近代美術館)、日本化薬株式会社高崎工場が位置する。
概要

東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所として明治15年(1882年)11月から黒色火薬の製造を開始。板橋火薬製造所についで、日本で2番目の陸軍火薬製造所だった[1][2]

東京から距離がある当地に建設が決定したのは、東京との間に船便があり、水利に富み水車の利用が可能なためであった[1][2]

日露戦争中の明治38年(1905年)、工学博士石藤豊太を所長として日本で初めてのダイナマイト工場が建設され、翌年から珪藻土ダイナマイト・膠質ダイナマイトの製造を開始。以後昭和20年(1945年)8月の敗戦まで陸軍唯一のダイナマイト工場として稼働した[1][3]

明治39年(1906年)の板橋火薬製造所の黒色火薬製造中止、大正13年(1924年)の目黒火薬製造所の閉鎖に伴い、陸軍唯一の黒色火薬製造工場となった[4][5]

終戦時の工場の敷地面積は32万5000坪(約107万2500平方メートル)、主要機械4000台、従業員3956人、月産生産能力G無煙火薬ニトログリセリン入りの無煙火薬)110トン、黒色火薬32トン、ダイナマイト180トンであった[4]
沿革

明治12年(
1879年) - 群馬県西群馬郡岩鼻町に陸軍火薬製造所を建設することが決定される。5月、西郷従道陸軍卿大山巌参謀本部次長らが建設地を視察[1][2]

明治13年(1880年)5月 - 建設開始[1]

明治15年(1882年)11月 - 東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所として操業開始。敷地面積10万1386坪(約33万4574平方メートル)[1][6]

明治17年(1884年) - 井野川対岸に八幡原火薬庫の建設が開始される[1]

明治23年(1890年) - 八幡原火薬庫(面積1万5972坪4合5勺(約5万2709平方メートル))使用開始[1]

明治27年(1894年) - 高崎線倉賀野駅が開業。工場との間の荷物輸送に荷馬車が利用された[7]

明治38年(1905年)5月 - 構内にダイナマイト工場(建物43棟、1616坪(約5333平方メートル))完成[1][3]

明治39年(1906年) - 珪藻土ダイナマイト、膠質ダイナマイトの製造を開始[1][3]

大正6年(1917年)4月28日 - 岩鼻軽便鉄道が営業開始[7]

大正12年(1923年) - 陸軍造兵廠の発足により陸軍造兵廠火工廠岩鼻火薬製造所となる[4][8]


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