岩鬼正美
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岩鬼 正美東京スーパースターズ #5
基本情報
国籍
日本
出身地神奈川県
生年月日 (1977-04-01) 1977年4月1日(47歳)
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション三塁手
プロ入り1994年 ドラフト1位
初出場1995年4月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


鷹丘中学校

明訓高校

福岡ダイエーホークス(1995 - 2003)

東京スーパースターズ(2004 - )

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岩鬼 正美(いわき まさみ)は、漫画ドカベン』に登場する架空の人物。アニメ版の声優玄田哲章。実写版の俳優高品正広
経歴

誕生日は4月1日(『プロ野球篇』以降の設定では1977年生まれ)。

幼稚園に入る前から喧嘩っ早い問題児で、入園後も喧嘩の毎日で、最後は先生まで殴ってしまい、2年間の幼稚園時代は3回も転園する有様だった。

小学校については、初期にサチ子が入学した青田小学校で4年から6年まで番長だったと語っている。しかし、兄たちが通う秀西小学校ではなく明星小学校に入った描写や、その秀西小のユニフォームを着て野球をしているシーンもある。途中で転校した可能性もあるが、実際の経歴は不明。
中学時代

中学時代は後年と比べても輪を掛けて粗暴であった。鷹丘中ではいわゆる番長であったが、転校初日の山田太郎より自分の弁当が小さかったことにより、逆恨みに近い形でライバル意識を持つ。自分が山田を倒すまで他の奴に山田を倒させたくない、という理由で山田を追っかけて柔道部に入った。柔道部では山田、木下次郎らとともに鷹丘中の中心的選手として活躍。地区大会準優勝の原動力となった。

その後野球部に転部(野球部転部は山田より先)。野球部では主将・4番・エースにこだわる。ピッチャーとしてはノーコン。県大会では東郷学園中等部と対戦(エースは小林真司。この時点では退部しているが、控え投手として後にチームメートになる里中智がいた)、独善的な岩鬼を山田が巧みにリードし、岩鬼もまた額に死球を直撃するアクシデントに見舞われながら出場し続け善戦したものの、敗退。

高校に行けるような成績ではなかったらしいが、やくざに因縁をつけられ追われていた徳川監督を助けたことから明訓高校に進学(金銭による裏口入学を行ったことが匂わされているが、真相は明かされていない)。

後年ではその粗暴さなどの描写が少年誌で描くのに問題となるためか、ドリームトーナメント編の回想では幾分かマイルドなものに改変されている。
高校時代

明訓高校入学後、野球部に入部。高校入学を機にやんちゃな態度を封印していたが、周囲に猫被るなど自分を見失いかけていた。初期はまったく打てず、徳川監督におべんちゃらを使うだけで、メンバー決めの「ごぼう抜きノック」では振るわなかった。そんな岩鬼を見かねて山田は「もう高校野球は諦めた方がいいと思うよ」とプライドを敢えて傷つけることで元来の闘争心を取り戻させ、岩鬼は元の豪気な性格に戻った。岩鬼が悪球打ちであることに山田が気づき、それを徳川が見ていたためメンバーに加えられた。さらに山田の機転によって1年夏の県大会1回戦・白新高校戦で途中出場し、不知火守から打ったためその後はレギュラーとなる。この試合では左翼手を守り、ウイニングボールは岩鬼が捕ったが、そのときに野手全員が岩鬼の周囲に集まるほど守備は不安視されていた。その後、県大会では準決勝まで投手として出場。

県大会決勝の東海高校戦で1番・三塁手として出場、1回裏にスコアボードの時計を破壊する豪快な先頭打者初球本塁打を放った。以後、「1番・サード」が岩鬼の定位置となる(ただし、二塁手一塁手右翼手捕手の経験もある。また、4番での出場も2試合ある)。

1年夏の甲子園大会では、第1試合の始球式の際にボールを打ってホームランにしたが、試合では16打席連続三振という大不振。しかし、決勝のいわき東高校戦での初安打がまたもバックスクリーンへのプレイボールホームランだったが、三塁を踏み忘れてしまい、三塁手のアピールプレイによって取り消されている(記録上は二塁打となるため、初安打に変わりはない)。この試合で逆転の決勝2ランを放ち、明訓高校初出場初優勝に貢献した。なお、準決勝の土佐丸高校戦では里中をリリーフして登板、岩鬼が勝利投手となっている。

1年の夏の甲子園出場の後、教師乱闘事件を起こし、謹慎処分を受けた事がある。乱闘の理由は、岩鬼が勝手に放送室を占拠し、甲子園大会を振り返る(岩鬼の主観的な)放送を行ったことを教師が咎め、口論になったためである。不祥事は外部に漏れなかったものの、騒動を受け多くの部員が愛想を尽かして野球部を去ってしまい(実際にはこのときに野球部を離れようとした部員を徳川監督が除名処分にしていた)、一時、メンバーを9人揃えなくなってしまった事がある。高校時代に岩鬼が殴った相手は、他に山田と土門の計3人。なお、この放送は最初こそ批判もあったが、2年の春の大会以降は明訓高校の風物詩となり、校長が「これがないと甲子園大会が終わった気がしない」と言わしめる程になっている。

1年秋の県大会では故障した里中に代わってエースナンバー1を背負うが、長いイニングを投げたことはない。県大会決勝より再び三塁手に戻っている。関東大会や2年春の選抜大会では目立った活躍は少なかったが、決勝の土佐丸高校戦では起死回生の同点二塁打を放った(二塁で飽き足らず三塁をも狙いアウトになり、次打者の殿馬一人に「ドジ!! 一ついいと三つも四つもドジるづら」と呆れられている)。

2年夏の県大会は東海高校戦で追撃の大ホームラン、吉良高校戦でプレイボールホームラン、決勝の横浜学院高校戦では甲子園を決めるサヨナラホームランを放つなど活躍。甲子園大会では打撃面では目立った活躍はなかったが、2回戦の弁慶高校戦では1回の武蔵坊数馬の強烈なライナーを横っ飛びでキャッチするファインプレーを見せた。しかし弁慶高校戦にサヨナラ負けし、いわゆる明訓四天王世代で唯一の敗戦を喫した。

2年の秋、新しく就任した太平監督から主将に指名され、野球部を引っ張る。一時は失恋のため無気力状態になったが夏川夏子の「サヨウナラ」の指文字を「アイシテル」と勘違いしたことで闘志が復活、不知火から逆転満塁本塁打を放った。関東大会でも本塁打を放つなど活躍、明訓高校の4季連続甲子園出場に貢献した。春の選抜大会では3度目の全国制覇を達成。

3年夏は準決勝の横浜学院戦でサヨナラホームランを放つなど、明訓高校の5季連続甲子園出場に貢献。上記のとおり、甲子園本大会での3年春までの本塁打数は、1年夏の決勝戦で放った逆転2ランの1本だけだったが(取り消された幻の本塁打を除く)、3年夏の本大会ではそれまでの鬱憤を晴らすかのように6本塁打を量産した。


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