岩隈久志
[Wikipedia|▼Menu]

岩隈 久志シアトル・マリナーズ 特任コーチ
シアトル・マリナーズ選手時代
(2013年4月7日、オー・ドットコー・コロシアムにて)
基本情報
国籍 日本
出身地東京都東大和市
生年月日 (1981-04-12) 1981年4月12日(43歳)
身長
体重191 cm
95 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1999年 ドラフト5位
初出場NPB / 2001年5月29日
MLB / 2012年4月20日
最終出場NPB / 2011年10月7日
MLB / 2017年5月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


堀越高等学校

大阪近鉄バファローズ (2000 - 2004)

オリックス・バファローズ (2005)

東北楽天ゴールデンイーグルス (2005 - 2011)

シアトル・マリナーズ (2012 - 2017)

読売ジャイアンツ (2019 - 2020)

コーチ歴


シアトル・マリナーズ (2021 - )

青山東京ボーイズ

国際大会
代表チーム 日本
五輪2004年
WBC2009年
この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

オリンピック
男子 野球
2004野球
ワールド・ベースボール・クラシック
2009野球

岩隈 久志(いわくま ひさし、1981年昭和56年〉4月12日 - )は、東京都東大和市出身の元プロ野球選手投手、右投右打)・コーチ解説者MLBシアトル・マリナーズ特任コーチ・アドバイザー、少年硬式野球チームの青山東京ボーイズ創設者・コーチ。

NPBではパ・リーグ大阪近鉄バファローズ東北楽天ゴールデンイーグルスエースとして活躍し、MLBではアジア人として野茂英雄以来2人目となるノーヒットノーランを達成した。2004年アテネオリンピック野球銅メダリスト

元プロ野球選手(内野手外野手、右投右打)・コーチ・監督広橋公寿は義父、独立リーグ四国アイランドリーグ第1期生として、高知ファイティングドッグスへ1年間在籍していた広橋貴寿は義兄にあたる。
経歴
プロ入り前

小学校1年生の時から野球を始める。西武拝島線玉川上水駅近くの桜が丘周辺に住んでいたこともあり、小さい頃はファンクラブに入って西武ライオンズ球場に通い詰めるほどの熱烈な西武ライオンズファンだった[1]。中学時代は東大和リトルシニアでプレーし、堀越高等学校に進学[2]

堀越高校は野球推薦で入学したが、技術の事よりも連帯責任や精神的な指導が多い部活環境が合わず、1年の秋には退学覚悟で退部も考えたが、担任から「野球部じゃなくてもいいじゃないか。高校は卒業しておけ」と言われたことや、シニア時代の監督から「お前が野球を好きなら続けなさい」と助言を受け、思い留まった[1]。3年夏は西東京大会準決勝で日大三高にコールド負けするなど甲子園に出場はできなかったが、春の大会でプロ注目の選手が多かった帝京高校と対戦して好投するとプロのスカウトの目に留まり、1999年度ドラフト会議にて大阪近鉄バファローズから5位指名を受けて入団[1]。なおこの時、中日ドラゴンズも4位で指名するプランを持っていたが、球団事情で指名を見送ったという[3]
近鉄時代

2000年、一軍で登板することはなく、シーズンオフに黒潮リーグに参加し、149km/hを記録するなど首脳陣から期待を受ける。

2001年、5月29日の対日本ハムファイターズ戦で8回裏1点リードの状況で初登板し、9回裏に小笠原道大にソロ本塁打を打たれて同点に追いつかれた。しかし、延長10回表に近鉄打線が爆発し、中村紀洋のこの日3本目の本塁打となる満塁弾などで大きく勝ち越し、結果近鉄が17-12で勝利して岩隈はプロ初登板初勝利を挙げた。試合後には「自分が抑えていればすんなり勝てている状態だったのに打たれてしまいチームに申し訳ない」と語り、プロ初勝利の喜びの声はなかった。この年の後半戦に活躍し、最終的には完封1つを含む4勝2敗。手薄であった近鉄投手陣に貢献し、チームのリーグ優勝への力となった。ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは第2戦に先発している(勝敗つかず)。

2002年先発ローテーションの一角として23試合に登板し8勝7敗を記録する。12月、21歳で西武ライオンズ広橋公寿打撃コーチ(当時)の長女と結婚[4]。きっかけは東京都内の美術館で、広橋一家と偶然出会ったことから。

2003年、チーム最多となる15勝を挙げ、この年の最多完投、最多無四球を記録する。

2004年、自身初の開幕投手に抜擢され、球団新記録となる開幕12連勝を達成。なお後述する球団合併のため、結果的に岩隈は近鉄バファローズ最後の開幕投手となった。最終的に15勝2敗となり、最多勝最優秀投手のタイトルを獲得。最優秀防御率のタイトルもあと1人抑えれば確定であったが相川良太に2点本塁打を打たれて逃した。オールスターゲームのファン投票ではパ・リーグの先発部門でトップとなり、球宴第1戦の先発投手となる。日米野球の第5戦でも7回1失点の好投で勝ち投手となる活躍を見せた。この試合は岩隈にとって近鉄のユニフォームを着て登板した最後の試合となった。一方で、シーズン中に右肩の違和感をたびたび訴え、何度か登板をスライドさせていたが、これが後に悩まされる右肩の故障の前兆だったと言われる。6月に明らかとなった大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの球団合併と、シーズン終了後楽天の新規参入に伴う分配ドラフトで、合併球団のオリックス・バファローズに分配されたが、岩隈は合併に際しての労使「申し合わせ」を引き合いに入団を拒否し、オリックス側は説得を試みたが失敗した。

岩隈本人が金銭トレードで新規参入球団である東北楽天ゴールデンイーグルス(義父・広橋公寿が一軍守備走塁コーチとして在籍)への移籍を希望していたのに対し[5]中日ドラゴンズの西川順之助球団社長が「(落合博満)監督も含めてみんな『岩隈を欲しい』と言っている」と述べたほか[6]、編成担当・井手峻も「様子を見ている」とコメントするなど[7]、中日が岩隈獲得に興味を示していた[6]。当時、中日は岩隈を「川上憲伸(同年の沢村賞)と遜色ない実力の投手」と高く評価し[6]タイロン・ウッズ(前横浜ベイスターズ)に続く大型補強の目玉として、野口茂樹をはじめ複数投手との交換トレードを視野に入れていた[7]。このほか「読売ジャイアンツ(巨人)・阪神タイガースなども中日と同様に岩隈獲得を模索している」と報道されたが[5]、最終的には合併新球団と岩隈双方の今後を考えたオリックス側の譲歩により[8]、同年12月22日に岩隈の希望通り楽天に金銭トレードで譲渡される形で決着した[9][10](選手分配ドラフトについてはプロ野球再編問題の当該項参照)。

後に岩隈本人が2024年3月12日公開分の『フルタの方程式』で語ったところによると「一番は新規参入球団で新しい気持ちでやりたいという気持ちが強かった」という[11]
楽天時代

2005年、楽天球団初年度の開幕投手を任せられ、千葉マリンスタジアムでの対千葉ロッテマリーンズ戦で1失点完投し、球団初の勝利投手になった。その後、1年間にわたり先発ローテーションを守ったが、シーズン途中から右肩の故障などもあり背信投球を繰り返すようになる。それでも新球団の初代エースとして勝ち星も重ねていったが2桁勝利には届かなかった。低迷したチームにおいて9勝を挙げ楽天球団の規定投球回到達投手の第1号となったが、防御率規定投球回到達投手の中ではワーストの4.99、敗戦数もこの年のリーグワーストの15敗を喫した。

2006年はこの年から禁止事項となった2段モーションを修正するためにフォームを変更したがフォームが固まらず、昨年の右肩の故障の影響などで開幕には間に合わず、8月半ばまでは二軍での調整が続いた。8月29日の対日本ハム戦で一軍復帰し、9月12日の対ロッテ戦(千葉)でシーズン初勝利を記録したが最終的には6試合の登板で防御率3.72、1勝2敗に終わった。それでもオフには東北のステキなお父さんを選ぶ「第1回ベストファーザー in 東北」に選出された。

2007年、2年ぶりに開幕投手を務める。1週間後のホーム開幕戦でも先発投手に選ばれたが、試合開始直前(スタメン発表後)に背中の違和感を訴えて登板を回避し、川岸強が急遽登板する事態となり、翌日には登録抹消。4月下旬に一軍復帰して1勝を挙げるも、5月中旬に今度は左脇腹の肉離れを起こし、再び戦線離脱。後半戦に一軍復帰し、7月31日の対ロッテ戦(千葉)で2勝目を挙げる。8月23日の対ロッテ戦(千葉)では野村克則コーチ(当時)と乱闘寸前の小競り合いを起こした。この日は3回まで無失点に抑えたものの、4回に味方の失策を機に崩れ3失点。この回で降板した後、7回途中までロッカールームに閉じこもっていたところを野村に注意され激高し、コーチ陣が割って入り事態は収まったが、その様子はCS放送で中継された。その後、岩隈は試合中に野村に対して謝罪した(なお、2人は堀越高の先輩・後輩という間柄であり、普段はとても仲が良い)。後にロッカールームに閉じこもっていた理由を「娘が発熱し、自宅に連絡していたため」とブログで公表している(なお、試合はその後、楽天が同点に追い着いたが最後はサヨナラ負け。岩隈に勝敗は付かなかった)。その後もシーズン終了まで先発ローテーションの一角を務め、規定投球回こそ届かなかったが最終的に16試合に登板し5勝5敗、防御率3.40を記録。シーズン終了後の10月には曲げるだけで痛みを感じていた右肘の軟骨除去手術を受ける。2008年6月22日、広島市民球場にて

2008年、2年連続4度目の開幕投手を務め、7回1失点の好投を見せるも自身に勝敗はつかず、チームはサヨナラ負け。3月27日の対オリックス戦では楽天移籍後初の完封勝利を無四球で挙げた。その後も勝ち星を量産し5月上旬に前年に並ぶ5勝、6月15日の対巨人戦で4年ぶりの10勝目を無四球完封で挙げる。前半戦を19試合の先発で両リーグトップの14勝を記録するも8月の北京オリンピック日本代表にまさかの落選。本人も悔しさをあらわにした。8月16日の対ロッテ戦(千葉)で自己最多となる16勝目。更に9月22日の対西武戦(西武ドーム)で、パ・リーグでは2003年の斉藤和巳以来となる20勝目に到達。そして、シーズン最終登板となった10月5日、Kスタ宮城での対福岡ソフトバンクホークス戦でも勝利し、1985年の佐藤義則以来23年ぶりの21勝を挙げ最多勝を獲得。この試合で防御率ではダルビッシュ有を抜き、勝率では同率であった小松聖をかわして単独投手三冠を達成。リーグ最多投球イニングも記録し、チームのシーズン65勝のうち3分の1近くを1人で挙げる自己最高のシーズンとなった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:224 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef