岩隈久志
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岩隈 久志シアトル・マリナーズ 特任コーチ
シアトル・マリナーズ時代
(2013年4月7日、O.co コロシアムにて)
基本情報
国籍 日本
出身地東京都東大和市
生年月日 (1981-04-12) 1981年4月12日(42歳)
身長
体重191 cm
95 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1999年 ドラフト5位
初出場NPB / 2001年5月29日
MLB / 2012年4月20日
最終出場NPB / 2011年10月7日
MLB / 2017年5月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


堀越高等学校

大阪近鉄バファローズ (2000 - 2004)

オリックス・バファローズ (2005)

東北楽天ゴールデンイーグルス (2005 - 2011)

シアトル・マリナーズ (2012 - 2017)

読売ジャイアンツ (2019 - 2020)

コーチ歴


シアトル・マリナーズ (2021 - )

国際大会
代表チーム 日本
五輪2004年
WBC2009年
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オリンピック
男子 野球
2004野球
ワールド・ベースボール・クラシック
2009野球

岩隈 久志(いわくま ひさし、1981年4月12日 - )は、日本の元プロ野球選手投手)、野球解説者。右投右打。東京都東大和市出身。
概要

日本プロ野球(NPB)ではパシフィック・リーグ(パ・リーグ)の大阪近鉄バファローズ東北楽天ゴールデンイーグルスでエースとして活躍し、メジャーリーグベースボール(MLB)へ挑戦。MLB時代にはアジア人として野茂英雄以来2人目となるノーヒットノーランを達成した。アテネオリンピック野球の銅メダリスト。
経歴
プロ入り前

小学校1年生の時から野球を始める。西武拝島線玉川上水駅近くの桜が丘周辺に住んでいたこともあり、小さい頃はファンクラブに入って西武ライオンズ球場に通い詰めるほどの熱烈な西武ライオンズファンだった[1]。中学時代は東大和リトルシニアでプレーし、堀越高等学校に進学[2]

堀越高校は野球推薦で入学したが、技術の事よりも連帯責任や精神的な指導が多い部活環境が合わず、1年の秋には退学覚悟で退部も考えたが、担任から「野球部じゃなくてもいいじゃないか。高校は卒業しておけ」と言われたことや、シニア時代の監督から「お前が野球を好きなら続けなさい」と助言を受け、思い留まった[1]。3年夏は西東京大会準決勝で日大三高にコールド負けするなど甲子園に出場はできなかったが、春の大会でプロ注目の選手が多かった帝京高校と対戦して好投するとプロのスカウトの目に留まり、1999年度ドラフト会議にて大阪近鉄バファローズから5位指名を受けて入団[1]。なおこの時、中日ドラゴンズも4位で指名するプランを持っていたが、球団事情で指名を見送ったという[3]
近鉄時代

2000年、一軍で登板することはなく、シーズンオフに黒潮リーグに参加し、149km/hを記録するなど首脳陣から期待を受ける。

2001年、5月29日の対日本ハムファイターズ戦で8回裏1点リードの状況で初登板し、9回裏に小笠原道大にソロ本塁打を打たれて同点に追いつかれた。しかし、延長10回表に近鉄打線が爆発し、中村紀洋のこの日3本目の本塁打となる満塁弾などで大きく勝ち越し、結果近鉄が17-12で勝利して岩隈はプロ初登板初勝利を挙げた。試合後には「自分が抑えていればすんなり勝てている状態だったのに打たれてしまいチームに申し訳ない」と語り、プロ初勝利の喜びの声はなかった。この年の後半戦に活躍し、最終的には完封1つを含む4勝2敗。手薄であった近鉄投手陣に貢献し、チームのリーグ優勝への力となった。ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは第2戦に先発している(勝敗つかず)。

2002年先発ローテーションの一角として23試合に登板し8勝7敗を記録する。12月、21歳で西武ライオンズ広橋公寿打撃コーチ(当時)の長女と結婚[4]。きっかけは東京都内の美術館で、広橋一家と偶然出会ったことから。

2003年、チーム最多となる15勝を挙げ、この年の最多完投、最多無四球を記録する。

2004年、自身初の開幕投手に抜擢され、球団新記録となる開幕12連勝を達成。なお後述する球団合併のため、結果的に岩隈は近鉄バファローズ最後の開幕投手となった。最終的に15勝2敗となり、最多勝最優秀投手のタイトルを獲得。最優秀防御率のタイトルもあと1人抑えれば確定であったが相川良太に2点本塁打を打たれて逃した。オールスターゲームのファン投票ではパ・リーグの先発部門でトップとなり、球宴第1戦の先発投手となる。日米野球の第5戦でも7回1失点の好投で勝ち投手となる活躍を見せた。この試合は岩隈にとって近鉄のユニフォームを着て登板した最後の試合となった。一方で、シーズン中に右肩の違和感をたびたび訴え、何度か登板をスライドさせていたが、これが後に悩まされる右肩の故障の前兆だったと言われる。6月に明らかとなった大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの球団合併と、シーズン終了後楽天の新規参入に伴う分配ドラフトで、合併球団のオリックス・バファローズに分配されたが、岩隈は合併に際しての労使「申し合わせ」を引き合いに入団を拒否し、オリックス側は説得を試みたが失敗した。

岩隈本人が金銭トレードで新規参入球団である東北楽天ゴールデンイーグルス(義父・広橋公寿が一軍守備走塁コーチとして在籍)への移籍を希望していたのに対し[5]中日ドラゴンズの西川順之助球団社長が「(落合博満)監督も含めてみんな『岩隈を欲しい』と言っている」と述べたほか[6]、編成担当・井手峻も「様子を見ている」とコメントするなど[7]、中日が岩隈獲得に興味を示していた[6]


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