岩野泡鳴
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岩野 泡鳴
(いわの ほうめい)
誕生
1873年1月20日
日本名東県津名郡洲本馬場町(現・兵庫県洲本市海岸通2丁目)
死没 (1920-05-09) 1920年5月9日(47歳没)
日本東京府東京市本郷区
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴専修学校(現・専修大学
活動期間1894年 - 1920年
ジャンル小説評論
文学活動自然主義文学
代表作『神秘的半獣主義』(1906年、評論)
『新自然主義』(1908年、評論)
『耽溺』(1909年)
『放浪』(1910年)
『斷橋』(1911年)
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岩野 泡鳴(いわの ほうめい、1873年明治6年)1月20日 - 1920年大正9年)5月9日)は、明治大正期の日本の小説家詩人。本名は岩野美衛(よしえ)。新体詩人から自然主義作家に転身し、「神秘的半獣主義」を主張。代表作に『耽溺』など[1]。他の筆名は白滴子、阿波寺鳴門左衛門。乱脈な女性関係でも知られる[1]
概要

名東県津名郡洲本馬場町(現・兵庫県洲本市海岸通2丁目)出身。明治学院仙台神学校(現在の東北学院)、専修学校(現在の専修大学)に学ぶ。当時、神田神保町専修学校では法律学経済学を修め、1891年(明治24年)に卒業した。彼が満足に学校を終えたのは専修学校だけであり、卒業後、彼は志を転じ文学に向かう。

その後、詩人として文壇入りし、小説家に転進する。田山花袋島村抱月に次ぐ自然主義文学者として活躍した。作者の主観を移入した人物を描く「一元描写」論を主張したため、田山花袋の「平面描写」論と対立した。「神秘的半獣主義」を提唱し、霊肉一致、刹那主義を唱えるが、言辞の難解にもかかわらず、欲望の赴くままに女と関係するというような生活ぶりで、「僕は神だ」と演説するなど奇矯な言動が多かった。一時期、蟹の缶詰工場を作るために樺太に渡るが、事業に失敗するなど、非常に活動的な人物だった。
経歴
家系

本名・岩野美衛。岩野家は阿波徳島藩蜂須賀家江戸詰直参であったが、泡鳴の祖父の代で洲本に転住した。父・直夫は岩野家の婿養子で元徳島藩士。1873年明治6年)、洲本署巡査の父と、母・さとの長男として出生[2]

明治3年に起きた稲田騒動の余波もあり日進小学校(現・洲本第二小学校)時代の泡鳴は、土地の者から迫害され、独存自我が生成されていった。これは泡鳴文学の発祥基盤でもあった。
生涯

1884年(明治17年)、小学校を卒業し、英語塾の教師の家に預けられる[2]1887年大阪泰西学館に入学し、キリスト教受洗。翌年、一家をあげて上京。父は皇宮警察の巡査勤務のあと、下宿屋「日の出館」(東京府芝区西久保八幡町)を経営する。明治学院で一年学び、神田の専修学校で法律学と経済学を学び、1891年(明治24年)7月卒業[2]。同年、文芸誌『文壇』を 国木田独歩,田村三治らと発刊し、泡鳴を名乗る[2]。翌年、仙台神学校(東北学院)入学。キリスト教に懐疑的になる[2]1894年(明治27年)、東京に戻り『歌舞伎新報』の編集者となる[2]1895年(明治28年)に実母・さとが死去、熊谷まつが継母になる。

竹腰幸子と1895年(明治28年)結婚。1912年(明治45・大正元年)に離婚するまで四男二女を儲ける(うち男児二人は夭折)。

1899年(明治32年)、滋賀県警察部の通訳と巡査教習所の英語教師として滋賀県大津市に転居、天台宗研究を始める[3]1901年(明治34年)、膳所町の滋賀県立第二中学(現・滋賀県立膳所高等学校)の英語教師となる(教員試験に受からず無資格のまま)[3]。翌年、上京し大倉商業学校で英語を教えつつ『明星』などに詩を発表。1904年(明治37年)、第二詩集『夕潮』で認められる。1906年(明治39年)、初の小説「芸者小竹」、評論「神秘的半獣主義」を発表する。夏休み、戯曲を書くため日光の温泉に滞在中、芸者吉弥と痴情に耽る(『耽溺』)。

1908年(明治41年)に父が死去し、下宿「日の出館」を引き継ぐ。紀州から増田しも江が上京し、これを愛人とする。しも江はいざこざの中で毒を飲むが助かる(『毒薬を飲む女』)。10月20日、『新自然主義』を刊行した。

1909年(明治42年)、『新小説』2月に『耽溺』を発表し、1910年5月刊行、自然主義の作家として認められる。北海道へ渡るが蟹缶詰製造業はうまく行かず、樺太・北海道を転々とし、追ってきたしも江と心中し損ない、上京中にしも江と別れる。この体験が「泡鳴五部作」(『発展』『毒薬を飲む女』『放浪』『断橋』『憑き物』)に反映される。帰京後、女権運動をしていた遠藤清子を訪ね、同棲する。翌年、自伝小説『放浪』を刊行する。「毎日電報」に続編『断橋』を連載(この間東京日日新聞となる)。

1911年(明治44年)、「大阪新報」に入社し箕面線池田に清子と住む。自伝小説の冒頭に来るべき『発展』を『大阪新報』1911年12月16日-1912年3月25日に連載。清子は創刊された『青鞜』に参加し岩野清子と名乗る。

1912年(明治45・大正元年)、幸子と正式に離婚。7月に刊行した『発展』が発売禁止となり、「朝日新聞」紙上に抗議文を掲げる。大阪新報を退社して帰京。養蜂に熱中する。翌年、清子と正式に結婚。

1915年(大正4年)、プルターク『英雄伝』翻訳のため雇った筆記者蒲原英枝(房枝)と関係ができる。清子と別居し、世間から轟々たる非難を浴び、反論する。清子に訴えられ反訴するが敗訴。1917年(大正6年)、友人たちの斡旋で清子と協議離婚。

英枝が中心となり末日会を主催、毎月万世橋ミカドで開く。田中純久米正雄吉井勇谷崎精二加能作次郎らが集う。

1920年(大正9年)、腸チフスを病み東京帝国大学医学部附属病院に入院中、リンゴを食べたところ大腸穿孔を起こし死去。47歳。墓所は雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区)、法名「泡鳴居士」。
親族

父・直夫(1849年 - 1908年)は洲本警察署の巡査で、母・さと(1850年 - 1895年)の岩野家に婿入りした[2]。泡鳴(本名・美衛)は長男で、下に長女・はつ,二女・きん,二男・巌,三女・ちゑ,三男・勝があった[2]。父の直夫は実直な働きぶりで岩野家の借金を返したが、女遊びを覚えてからは家庭は不和となった[2]。その後、直夫は上京、皇宮巡査を経て下宿屋を営み、さとの病中に熊谷まつを囲い、さと没後、正妻とした[2]

3人の妻との間に9人の子を生した。正宗白鳥は泡鳴を評して「子供に対してほとんど愛情らしいものを感じないのは、日本の作家のうち類例を絶している」と述べ[3]徳田秋声も子供を不幸な運命にしている例として、島村抱月島崎藤村田山花袋とともに泡鳴の名を挙げている[4]


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