岩谷徹_(ゲームクリエイター)
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この項目では、ゲームクリエイターについて説明しています。版画家については「岩谷徹 (版画家)」をご覧ください。

いわたに とおる
岩谷 徹
GDC2011
生誕 (1955-01-25) 1955年1月25日(69歳)
東京都目黒区
国籍 日本
職業ゲームクリエイター
代表作『パックマン
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岩谷 徹(いわたに とおる、1955年1月25日 - )は日本のゲームクリエイター。『パックマン』の生みの親として知られる。東京都目黒区出身。大阪芸術大学客員教授[1]東京大学大学院特任教授[2]東京工芸大学名誉教授[3]
来歴

1955年、3人兄弟の末っ子として東京都目黒区に生まれる。NHK勤務の父親の転勤で、目黒サレジオ幼稚園から秋田市秋田経済大学付属幼稚園に移り、野山を駆け回る遊びを経験する[4]肥溜めに落ちたり、かまくらを作ったりといったこの頃の実体験がのちのゲーム作りの原点になったという[4]。父親の転勤に伴い、岩手県盛岡市宮城県仙台市で小学生時代を送り、中学から目黒に戻り、目黒区立第九中学校時代にピンボールと出合い、東京都立大学附属高等学校を経て東海大学工学部通信工学科を卒業[4]

1977年にナムコ(後のバンダイナムコエンターテインメント)に入社[5]。開発課に配属される。ピンボールゲームを作りたかったというのが入社理由だったが、当時ナムコは特許関連の解決が難しかったことを理由にピンボールを作っていなかったため、入社後しばらくはナムコが国内販売を行っていたアタリ社の基板修理、知的財産権の管理などを担当した。

1978年、ビデオゲームの開発を担当する。長らく温めていたピンボールの構想と、当時流行していたブロック崩しを融合させたアイディアをモチーフに、ナムコのビデオゲーム第1弾となる「ジービー」を開発。ジービーは日本国内で1万台以上の出荷枚数を確保することに成功し、ナムコが本格的にビデオゲーム産業へ参入する足がかりを作った。しかし、『スペースインベーダー』のブーム到来により、販売台数が振るわなかった。

続編の『ボムビー』のゲームデザイン、『キューティQ』のグラフィックデザインを経て、1980年には他の社員4人と共に『パックマン』を企画、開発した。『パックマン』は1980年7月に日本で発売[6]されたがギャラクシアンほどのヒットとはならなかった。その後、北アメリカでリリースされた際、正規品だけで28万台を出荷[7]、「パックマン・フィーバー」というディスコミュージックやテレビアニメが作成されるなど北アメリカを席巻した。このことからパックマンは「80年代のミッキーマウス」と称された。『パックマン』は世界中でリリースされて大ヒットとなり、ライセンス料など含めて数百億円の売り上げを記録、コンピューターゲームの歴史に名を刻んだ。岩谷は、パックマンが日本では売れる自信があったが米国その他の国でそれほどあれほど売れるとは驚きだったと述べている[8]。『パックマン』30周年を迎えた2010年には生みの親の岩谷自身も開発者として改めてギネス認定された[9]

1983年発売の『リブルラブル』の企画兼プロデュースを境に、以降はプロデューサーを専業し『ドラゴンバスター』、『源平討魔伝』、『リッジレーサー』、『アルペンレーサー』、『タイムクライシス』など、数多くの作品を手がけた。

2003年にCESAが開催した開発者セミナー「CEDEC 2003」において講師を務め、2005年4月から大阪芸術大学キャラクター造形学科の客員教授として教鞭を執るなど、対外活動を積極的に行っていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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