岩淵町
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この項目では、東京府にあった自治体について説明しています。東京都北区町丁については「岩淵町 (東京都北区)」をご覧ください。

いわぶちまち
岩淵町
廃止日1932年10月1日
廃止理由東京市編入
岩淵町、王子町→東京市王子区
現在の自治体東京都北区
廃止時点のデータ
日本
地方関東地方
都道府県東京府
北豊島郡
市町村コードなし(導入前に廃止)
面積5.36 km2.
総人口37,664人
(昭和5年国勢調査、1930年10月1日)
隣接自治体東京府北豊島郡王子町志村
南足立郡江北村
埼玉県北足立郡南平柳村川口町横曽根村
岩淵町役場
所在地東京府北豊島郡岩淵町大字赤羽437番地
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度46分45秒 東経139度43分13秒 / 北緯35.77925度 東経139.72028度 / 35.77925; 139.72028座標: 北緯35度46分45秒 東経139度43分13秒 / 北緯35.77925度 東経139.72028度 / 35.77925; 139.72028
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岩淵町(いわぶちまち)は、かつて東京府北豊島郡に存在したの一つ。1889年(明治22年)の市制町村制によって誕生した。現在の東京都北区北部に当たる地域。

もともと室町時代以前には武蔵国豊島郡岩淵郷(いわぶちのさと、いわぶちごう)と呼ばれた地域であるため、これもあわせて記述する。
地理

現在の地名では赤羽赤羽北赤羽台赤羽西赤羽南岩淵町浮間神谷桐ケ丘志茂西が丘に相当する。

西部は武蔵野台地の高台であり、東部、北部は荒川氾濫原である。

河川:荒川石神井川支川(石神井用水)、神谷堀

歴史

1932年昭和7年)以降については王子区を参照。

岩淵は古くからある地名である。室町時代の『小田原衆所領役帳』には、「太田新六郎知行江戸岩淵五ヶ村」とあり、すでに岩淵郷が複数に分かれていたことがわかる。五ヶ村の内訳は後の大字、すなわち、岩淵宿、稲付村、赤羽根村、袋村、下村であろうと考えられている。江戸時代には赤羽の八幡神社がこの五ヶ村の総鎮守であった。また、江戸時代にはこの岩淵から新堀村(現在の荒川区西日暮里)、下駒込村(現在の文京区本駒込)のあたりまで広く岩淵領が置かれていた。

岩淵宿は日光御成街道の第一の宿駅であり、岩淵郷の本村である。「元禄の改め」では岩淵本宿と記され、「正保の改め」では岩淵町と記されている。明治に入り、岩淵本宿町が正式な名称となった。稲付村、赤羽根村、袋村、下村は、元は岩淵郷のうちであり、いつ頃分立したかは不明。岩淵宿、稲付村、赤羽根村は江戸時代には寺社領であった。袋村、下村は天領であったが、後に天領と寺社領の入会となった。神谷村は旗本領であった。また、岩淵宿、稲付村、赤羽根村、下村は荒川の対岸に持添新田を持っていた。赤羽根村は明治に入り赤羽村に改称された。

1889年(明治22年)、市制町村制により、岩淵本宿町、稲付村、赤羽村、袋村、下村、神谷村が合併し岩淵町となった。当初、北豊島郡が出した案は前述の六町村に上十条村を加え「赤羽村」とするものであった。上十条村が加えられていたのは、新・王子村には滝野川村の半分を加えるつもりであったことによる。「赤羽村」という名称にする予定であったのは、鉄道の発展により岩淵本宿町が衰退し、軍事都市赤羽が発達しつつあったことによるが、岩淵本宿町が分村の名前に変えられることへ大きく反発したため、結果として「岩淵町」が採用された。規模的には村のほうがふさわしいが、岩淵本宿町はかつて村であったことがなかったため、町となった。
沿革

1868年8月7日慶応4年旧暦6月19日):岩淵本宿町、稲付村、赤羽村、袋村、下村、神谷村は武蔵知県事山田政則管轄区域となる。

1869年

2月20日(明治2年旧暦1月10日):山田政則を罷免し、宮原忠英を武蔵知県事に任命。

3月10日(明治2年旧暦1月28日):武蔵知県事宮原忠英の管轄区域をもって大宮県が設置。県庁は東京府馬喰町に置かれる。

11月2日(明治2年旧暦9月29日):県庁が浦和に置かれ浦和県に改称。


1870年

1月16日(明治2年旧暦12月15日):浦和県が下板橋宿に出張所を設置。

4月21日(明治3年旧暦3月21日):下板橋宿組合、上板橋宿組合が合併され、板橋宿組合となる。


1871年

4月24日(明治4年旧暦3月5日):岩淵宿組合が廃止され、板橋宿組合に編入される。

5月22日(明治4年旧暦4月4日):戸籍法公布。翌年旧暦2月試行。

8月26日(明治4年旧暦7月11日):戸籍法に従い、浦和県内に戸籍区が設置され、板橋宿組合は第三区となる。

10月12日(明治4年旧暦8月28日):戸籍区が分割され、岩淵本宿町、稲付村、赤羽村、袋村、下村は第三区五小区、神谷村は王子村、豊島村、上十条村、下十条村と共に第三区六小区となる。

12月28日(明治4年旧暦11月17日):浦和県が岩槻県および忍県と合併して埼玉県となり、豊島郡29村は東京府に編入され板橋口となる。当区域はそれぞれ板橋口第三区五小区、板橋口第三区六小区となる。


1872年

1月8日(明治4年旧暦11月28日):東京府は大区小区制により旧・府内を六大区に区分する。

2月21日(明治5年旧暦1月13日):板橋口が第四大区の管轄となり、王子村、豊島村、上十条村、下十条村は岩淵本宿町、稲付村、赤羽村、袋村、下村、神谷村と共に第四大区十三小区(区屯所は巣鴨町旧保坂家)に編入される。

明治5年旧暦3月:旧・板橋口29村が形式上は第四大区十七小区に区分されるが、実質的には前述の管理のままであった。


1873年(明治6年)3月:東京府は府内全域を十一大区に再編する区画改正を行い、岩淵本宿町、稲付村、赤羽村、袋村、下村、神谷村は王子村、豊島村、上十条村、下十条村、小豆沢村、本蓮沼村、八官新田と共に第九大区六小区(区事務取扱所は上十条村、戸長は岩淵本宿町名主小田切重路)となる。

1878年(明治11年)11月:大区小区制が廃され、郡区町村編制法により北豊島郡(郡役所は下板橋宿)が設置される。

その後、連合戸長役場が設置され、明治18年度の記録によれば、岩淵本宿町外二ヶ村連合(岩淵本宿町赤羽村袋村連合連合。連合戸長役場は岩淵本宿町)、神谷村下村連合(連合戸長役場は神谷村)、稲付村外二ヶ村連合(稲付村上十条村下十条村連合。連合戸長役場は稲付村)となっていた。


1889年(明治22年)5月1日:市制町村制により、岩淵本宿町、稲付村、赤羽村、袋村、下村、神谷村が合併し岩淵町となる。

1903年(明治36年):赤羽大火により町役場庁舎、岩淵尋常高等小学校など焼失。


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