岩波新書
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岩波新書(いわなみしんしょ)は、岩波書店が刊行する新書シリーズである。
概要

古典を中心とした岩波文庫に対し、書き下ろし作品による一般啓蒙書を廉価で提供することを目的として、1938年昭和13年)11月20日に創刊され[1]、新書と呼ばれる出版形態の創始となった。

第二次世界大戦後、新書という出版形態が定着するに伴って創刊された中公新書1962年(昭和37年)創刊)、講談社現代新書1964年(昭和39年)創刊)とともに、教養新書御三家[2]や新書の御三家[3]と称された。

サイズは縦173mm、横105mmである。縦・横の長さの比率は(1:1.6476)であり、黄金比(1:1.6180)に近い値になっている。
沿革
赤版として創刊

創刊の作業は、当時の編集部の吉野源三郎が担当し、吉野が目にしたイギリスペーパーバックであるペリカン・ブックスを参考に判型が決められた。装幀は吉野の依頼を受け、美学者美術史学者である児島喜久雄が担当。2006年(平成18年)まで長く用いられた表紙のランプや、部分の四隅でを吹きかけあうアネモイギリシャ神話風神)を描いた。また創刊当初の表紙の色を赤一色にしたのは岩波茂雄の指示による。

創刊の辞は「道義の精神に則らない日本の行動を深慮し、権勢に媚び偏狭に傾く風潮と他を排撃する驕慢な思想を戒め、批判的精神と良心的行動に拠る文化日本の躍進を求めての出発である」と、「岩波新書創刊50年、新版の発足に際して」(1998年1月)に引用されている。

この赤版は戦争による一時中断を経て、101点刊行された[4]

岩波新書創刊第一冊目は、矢内原忠雄リンカーンエレミヤ日蓮新渡戸稲造などの伝記を『余の尊敬する人物』と題して構想しており、岩波の了解も得ての予定だったが急遽変更となり、1938年(昭和13年)赤版1、2の上・下二冊としてクリスチーの『奉天三十年』(上・下)を翻訳で発刊した[5]。発刊の辞は「今茲に現代人の現代的教養を目的として岩波新書を刊行する」としている[6]

1944年、苛烈な戦時下にあって、岩波新書は刊行点数98点を以て中絶のやむなきにいたり、戦後すぐの1946年、3点を発行したのを最後に赤版新書は終結した[6]
青版として再出発

1949年(昭和24年)4月5日[7]、出版点数が100を越えたのを機に[8]、装いを新たに表紙を青(いわゆる青版[注 1])に変更した。この青版は、「国民大衆に自立的精神の糧を提供すること」を願って再出発するという意味合いが込められている。

この叢書の果たすべき課題として、「世界の民衆的文化の伝統を継承し、科学的にしてかつ批判的な精神を鍛えること」「科学的な文化のくびれを投げ捨てるとともに、日本の進歩的文化遺産を蘇らせて国民的誇りを取りもどすこと」「在来の独善的装飾的教養を洗いおとし、民衆の生活と結びついた新鮮な文化を建設すること」の三つを設定している[9]

1950年代までは、小説作品が収められることもあった[注 2]

1960年代まではしおりひもが貼付されていたが、1970年代からは岩波文庫と同様に紙しおりの挟み込み(片面が新刊案内になっている)へと変えられた。
黄版への転換

1977年(昭和52年)4月20日に青版の刊行が1,000点を越え[10]、岩波新書創立40周年を迎えるのを機に黄色に改められた(黄版)。時代の様相は「戦争直後とは全く一変し、国際的にも国内的にも大きな発展を遂げながらも、同時に混迷の度を深めて転換の時代」を迎えていた。日本は「アジア民族の信を得ないばかりか、近年にいたって再び独善偏狭に傾くおそれ」の方向に向かいつつある。三たび装を改めたのは、「新世紀につながる時代に対応する」ことを願ってのことである[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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