岩槻城址公園
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埼玉県
鍛冶曲輪の白鶴城址碑
別名岩付城、岩附城、白鶴城、浮城
城郭構造総曲輪式平城
天守構造不明
築城主不明(鎌倉時代)
築城年1246年以前
主な改修者成田氏、太田氏、渋江氏、後北条氏、徳川氏
主な城主不明、成田氏太田氏、渋江氏、後北条氏大岡氏
廃城年1871年(明治4年)
遺構現存門、土塁、曲輪、空堀、土橋、馬出し
指定文化財県指定史跡(城跡)
市指定史跡(大構)
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度57分4.85秒 東経139度42分36.86秒 / 北緯35.9513472度 東経139.7102389度 / 35.9513472; 139.7102389 (岩槻城)座標: 北緯35度57分4.85秒 東経139度42分36.86秒 / 北緯35.9513472度 東経139.7102389度 / 35.9513472; 139.7102389 (岩槻城)
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岩槻城(いわつきじょう)は、埼玉県さいたま市岩槻区武蔵国埼玉郡岩槻)にあった日本の城平山城)。岩槻藩の藩庁。鎌倉時代以前に築かれ、大宮台地岩槻支台上に立地。別称に岩付城、岩附城、浮城、白鶴城がある。県指定史跡[1]。また周囲の大構(おおがまえ)は市指定史跡となっている[2]
歴史
鎌倉時代以前

新編武蔵風土記稿』によると、岩槻の弥勒寺北条重時が寄附した寛元4年(1246)の鐘銘に「武州埼玉郡[竹斯]輪郷岩付」と彫られてあったといい、同書はこの頃には既に岩付城と呼ばれていた(岩付城があった)と推測している。[3]
室町時代

鎌倉大草紙』には、古河城にいた古河公方足利成氏に対抗するため、1457年(長禄元年)、扇谷上杉持朝とその家臣太田道真太田道灌父子により、江戸城河越城とともに築かれたとある[4][5]。[要出典](参照情報不足。「取り立てられた」とあるのではないか)

その後、永正7年(1509年)には、古河公方奉公衆である渋江氏が岩付城主となったとみられている[6]

1990年に長塚孝は、1478年(文明10年)に古河公方方の忍城成田顕泰の父成田自耕斎正等が築城したとする史料[7]があることを紹介した[8][9][10]

2012年に小宮勝男は、成田氏築城説の根拠となった史料で築城者「正等」の子とされている「顕泰」は成田顕泰ではなく、長尾忠景の三男であり太田道真の養子になった人物とし、「正等」は道真の法諱(仏法社会の本名)とみなすべき、と主張した[11]
戦国時代詳細は「岩付城の戦い」を参照

扇谷上杉氏山内上杉氏の対立から関東も戦乱期に突入する。1522年(大永2年)[12]太田資頼が岩槻城を奪取し、以後、岩付太田氏の居城となる。伊豆相模を手中に収めていた北条氏が武蔵に侵攻して岩槻城攻略に乗り出すと、1546年(天文15年)の河越夜戦で北条氏の武蔵支配が決定的になる中、岩付城はそれに抵抗する太田資正(三楽斎)の居城として機能した[5]1564年(永禄7年)、資正の留守中に嫡子・太田氏資北条氏康に内応し資正の追放を断行、岩付城は後北条氏方となった[5]1567年(永禄10年)、氏資が上総国で戦死すると、氏資には男子がいなかったため、北条氏はこれを契機に岩付城を直轄にする。1580年(天正8年)には北条氏直の弟の源五郎が、その早世後の1585年(天正13年)にはその弟氏房が城主になった(形の上では太田氏の名跡を継いでいる)。

1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、氏房が小田原城に詰めたため、氏房付の宿老である伊達房実の指揮の下、2000の兵が岩付城に籠城するが、浅野長吉等に率る約2万の兵に攻められ、1000余の犠牲を出して数日後に降伏落城した[5]
江戸時代

北条氏滅亡後、徳川家康が関東に入ると、徳川家の譜代家臣の高力清長が2万石で岩槻城に入った[5]。以後、青山氏阿部氏板倉氏戸田氏藤井松平氏小笠原氏永井氏譜代大名の居城となった[5]。江戸中期に徳川家重側用人大岡忠光大岡忠相の遠縁)が入って藩主家が固定、廃藩置県まで大岡氏の居城となった[5]。天守はなかったが、天守代用の櫓として本丸に二層二階の瓦櫓があり、他に?葺二層二階の二重櫓と同じく?葺の一層一階の櫛形櫓が本丸に存在した。
明治時代以降黒門1770年(明和7年)に作られた裏門。岩槻城の裏門と伝えられているが、所在位置については不明である。(2007年8月)

城址公園に黒門と裏門が移築され残っている。黒門は一時浦和埼玉県庁舎正門として移築されたが、岩槻市に払い下げられ、再度移築した。他に門2棟が移築され残っている。城址公園は曲輪の一部で、本丸があった場所は住宅地となっている。また1988年には地名変更により本丸が成立している。
構造

岩槻城の地形は「岩槻台地の舌状台地上に築かれ、北から東を元荒川が囲繞、その内側には帯曲輪があり、南西方向を除いて沼(堀)に囲まれ」ている[13]。荒川(現在の元荒川)の台地を利用した平山城。また珍しい総曲輪型城郭の縄張りが施されていた。

城下町は、「南西方向は岩槻台地に連続し、武家屋敷が縄張りされ、町人町はその外側の南西から西側にかけてと南東側に配置されている。寺院は町人町の外縁、大構(惣構)の要所要所に配置されている。」[13]

岩槻城の城跡は「本郭と東に続く二の丸、南の三の丸を中心に茶屋曲輪・天神曲輪・竹沢曲輪・新正寺曲輪・新曲輪などの諸曲輪からなり、沼地であった所へ縄張りして築城した」という[14]


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