岩本徹三
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岩本 徹三
いわもと てつぞう

渾名最強の零戦パイロット、零戦虎徹、零戦撃墜王
生誕1916年6月14日
日本樺太
死没1955年5月20日(38歳没)
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1934年 - 1945年
最終階級海軍特務中尉
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第二次世界大戦

支那事変

ソロモン諸島の戦い

トラック島空襲

日本本土戦


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岩本 徹三(いわもと てつぞう、1916年〈大正5年〉6月14日 - 1955年昭和30年〉5月20日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍特務中尉第二次世界大戦撃墜王島根県出身。
経歴

1916年(大正5年)6月14日、樺太の国境近くで警察官の父親の元に三男一女の兄弟の三男として生まれた[1][注釈 1]。小学生の頃、父親が北海道札幌市の署長に転勤し、スキーで登校することもあった。13歳のとき、父親が退官して父の故郷である島根県益田へ移る。島根県立益田農林学校高等科2年に転入する。数学と幾何は優で、学校のクラブ活動ではラッパ隊に入部した。趣味は読書と園芸であった。幼少時から腕白ですばしっこく勉強より体を動かすことを好み、地引網で魚の群れを追い込む浜辺の漁師を手伝ったりする反面、一本気の頑固な正義感の持ち主で教師を辟易させることもあった。魚突きをして捕らえることが得意であった。1935年益田農林学校を卒業後、「若いときは勉強のため大学受験し、大学卒業後都会からもどらないつもりの長男や亡くなった次男の代わりに、家に残ってほしい」という父親の意に反して、大学受験と偽って海軍の志願兵試験(予科練習生予定者)を受験して合格、航空科を選択する。海兵団に入団する際に「自分は三男に生まれたのだから、お国のためにこの命を捧げます。」と両親に告げた。

1934年(昭和9年)6月1日海兵団に四等航空兵として入団。1934年11月15日三等航空兵。1935年第31期普通科整備術練習生として霞ヶ浦海軍航空隊に入隊。同年8月20日三等整備兵、航空母艦龍驤の艦上整備員。同年11月2日二等整備兵。次いで操縦員を志望して認められ、1936年(昭和11年)4月28日、第34期操縦練習生として霞ヶ浦海軍航空隊に入隊。射撃の成績が抜群であり、自習にも励み、消灯のあとでも教本を持って外に出て街灯の光でおそくまで勉強したこともあった。霞ヶ浦友部分遣隊では、大宅秀平、磯崎千利たちから教えを受けていた。1936年12月26日第34期操縦練習生卒業、一等航空兵、佐伯海軍航空隊勤務。1937年6月1日普通善行章一線付与。1937年7月大村航空隊勤務。
支那事変

1937年8月に勃発した支那事変のため、1938年2月第十三航空隊付となり、黒岩利雄一空曹に率いられて南京に着任した。同航空隊の田中国義は「あの頃はすごいパイロットがそろっていた。先任搭乗員黒岩利雄、次席が赤松貞明、3席が虎熊正。私や武藤金義、あとから来た岩本徹三なんか食卓番ですよ。この頃の古い人たちはそれぞれ操縦もうまく名人ぞろいだった」と回想している。

1938年2月25日、岩本の初陣となる南昌空襲に出撃。岩本の所属は一中隊(田熊繁雄大尉指揮)三小隊で、一番機 黒岩利雄一空曹、二番機楠次郎吉二空曹、三番機が岩本だった。岩本は、I-15 4機(うち1機不確実)、I-16 1機撃墜という目覚しい戦果をあげた[2]1938年4月30日、漢口空襲につき所属部隊に感状授与。1938年5月1日三等航空兵曹。岩本は支那事変において半年の間に日本軍最多数撃墜数14機を公認されている。

1939年11月1日善行章第二線付与、二等航空兵曹。1940年(昭和15年)に支那事変の論功行賞で生存者金鵄勲章の最後となる叙勲申請の栄誉をうけ、1942年(昭和17年)8月1日感状の授与、また勲七等に叙され、功5級金鵄勲章(下士官の生存者のうち武功抜群相当)を叙勲された。[注釈 2]
第二次世界大戦
空母「瑞鶴」

1940年4月連合艦隊第1艦隊所属第1航空戦隊、「龍驤」で艦隊訓練を開始、予備艦になって整備中だった「龍驤」を使っての母艦訓練に参加した。訓練内容は、離艦・着艦、母艦へ夜間着艦訓練、編隊空戦の連携訓練、洋上航法、夜間航法、無線兵器の電信での母艦との通信連絡および電波航法(フェアチャイルド社製クルシー方位探知機での)による帰投などであった。[注釈 3]詳細は「第一航空艦隊」を参照

1941年(昭和16年)4月第1航空艦隊(1航艦)創設にともない、岩本たちは前年度からの母艦「龍驤」での訓練で選抜された中堅搭乗員として、第1航空艦隊所属の第3航空戦隊である「瑞鳳」戦闘機隊に配属。1941年5月1日海軍一等航空兵曹(6月1日海軍一等飛行兵曹に改称)。1941年秋、最新型の高速大型空母「翔鶴」、「瑞鶴」が就役し、第5航空戦隊が創設された。10月4日、3航戦の岩本たち瑞鳳戦闘機隊隊員たちは第5航戦に編入し、二手に分かれて「瑞鶴」および「翔鶴」に着任した。一航艦は日米開戦の劈頭に行う真珠湾攻撃のために極秘で準備されていたが、岩本たち下級搭乗員は知らされないまま、九州各基地に搭乗機種、艦ごとに集合して、当時世界3大海軍国の米国英国を飛行技量でしのぐ最高の艦隊搭乗員実力を目指して連日、日夜激しい訓練がつづけられていた。岩本の回想録には、以後の太平洋戦線での様々な実戦局面で、幸運や勘ではなく、この時期に艦隊戦闘機隊訓練で体得した技術を洋上、夜間の飛行操縦術へ科学的に応用活用し、確率を上げて生き抜いた描写が記述されている。

1941年12月大東亜戦争開戦。劈頭の真珠湾奇襲作戦に参加。第一航空艦隊所属の航空母艦瑞鶴」戦闘機隊員[3]で、真珠湾攻撃時は艦隊の上空直衛任務に就き戦果はなかった。1941年12月24日感状授与。

1942年4月インド洋作戦で4月5日機動部隊に接触してきたコンソリーデーテッドPBY飛行艇を撃墜し、太平洋戦争における岩本の初撃墜の戦果を得た。詳細は「珊瑚海海戦」を参照

1942年5月MO作戦のため、5航戦は一航艦から第4艦隊指揮下に入り、珊瑚海海戦に「瑞鶴」上空直掩で参加。1942年5月8日、瑞鶴の岩本の瑞鶴直衛隊の戦闘機3機と翔鶴隊3機は上空警戒に上がっていたものの、残りの13機は事前に偵察機から「敵三十機味方主力方向に向かう」との報告を受けながらも、至近距離までせまってからようやくの緊急発艦であり、艦隊の邀撃体勢は後手となった。


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