岩手県南バス
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岩手県交通株式会社
Iwateken Kotsu Co.,Ltd.
岩手県交通本社(盛岡市)
種類株式会社
略称県交通
本社所在地 日本
020-0034
岩手県盛岡市盛岡駅前通3番55号[1]
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯39度42分5.22秒 東経141度8分20.15秒 / 北緯39.7014500度 東経141.1389306度 / 39.7014500; 141.1389306座標: 北緯39度42分5.22秒 東経141度8分20.15秒 / 北緯39.7014500度 東経141.1389306度 / 39.7014500; 141.1389306
設立1976年6月1日[1]
業種陸運業
法人番号7400001002221
事業内容一般乗合旅客自動車運送事業
一般貸切旅客自動車運送事業
旅行業
ほか[1]
代表者代表取締役会長兼社長 本田一彦[1]
資本金9,600万円[1]
売上高36億0700万円(2022年3月期)
従業員数620名(2022年1月)
主要株主国際東北株式会社
主要子会社岩手県交通整備株式会社[1]
岩手県交通サービス株式会社[1]
外部リンク ⇒国際東北グループ 岩手県交通株式会社
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岩手県交通株式会社(いわてけんこうつう)は、岩手県盛岡市本社を置くバス事業者[1]。県内の盛岡市以南のほとんどの地域で路線バスを運行するとともに、県内から東京方面などへの高速バス花巻空港への空港連絡バスを運行している[1]。また貸切バス事業も行う[1]岩手県北自動車(県北バス)とともに岩手県を代表するバス事業者である。岩手県バス協会会員[2]。元国際興業グループ。

略称は「県交通」(けんこうつう)。「岩交」(いわこう)を用いていた時期もあるが、現在ではあまり使われない。
概要

前身は戦時統合により発足した岩手中央バス(中央バス)・花巻バス・岩手県南バス(県南バス)の3社である。1960年代以降のモータリゼーションの波を受け、利用者減少により経営が悪化、3社中2社が会社更生法の適用を申請し、賃金遅配によるストライキが頻発した。

1976年の3社合併後も合理化は進まなかったが、1986年国際興業の傘下に入ってからは業績も上向きとなり、高速バス参入も奏功して単年度黒字を計上するまでになった。近年では盛岡市近郊の輸送改善にも積極的である。
沿革

本節では、単に「県」と表記した場合は岩手県を指すものとする。
創業期から戦時統合まで

岩手県に初めてバスが走ったのは、1912年に盛岡と宮古を結んだ盛宮自動車である[3]。岩手県交通の路線として現在運行されているものとしては、1918年に盛岡市内の路線で営業を開始した盛岡自動車とされている。この後、小規模な事業者が次々と設立され、1928年には盛岡のバス事業者だけで22社に上っている。

第二次世界大戦に入るとガソリン規制が行われたため、これらの中小事業者の経営を圧迫した。さらに1942年には陸上交通統制の通牒が出され、岩手県は大きく4ブロックに分けられることになった。太平洋沿岸北部が岩手県北自動車(県北バス)、太平洋沿岸南部は岩手東部乗合自動車、江刺以南の県南部は岩手県南自動車、県中心部の盛岡近辺は岩手中央自動車に統合されることになった。なお、花巻電鉄は社名のとおり鉄道事業を行っていたため、バス事業の統合からは除外されている。
戦後の成長期

県南バスは1949年大船渡に拠点を設置したのを皮切りにエリアを拡大し、1950年には貸切バス事業免許(貸切免許)を取得した。一方、岩手東部乗合自動車は1948年アイオン台風によって国鉄山田線が長期にわたって不通になった際に代行バス輸送を担当、1951年まで続いた。1951年に岩手東部乗合自動車は東部バスに社名変更したが、この頃になると県南バスとのエリア重複による不合理が目立ってきたため、1957年に東部バスは県南バスの傘下に入ることになり、1966年には正式に合併した。

岩手中央自動車は戦後間もない1948年に花巻地区を花巻バスとして分離した。その後は順次営業エリアを拡大するが、急激に車両数を増加させたことで運行コストの増大を招き、1960年以降は赤字決算となっている。分離した花巻バスは1958年までに30路線を開設するなど、やはり営業エリアを順次拡大していった。

1950年代は長距離バス路線展開が各社とも目立った。県南バスが1951年10月に一関と気仙沼を結ぶ路線を開設したのを皮切りに、1953年には中央バスと東部バスが相互乗り入れの形で盛岡と釜石を結ぶ路線を開設した。1955年に運行開始された盛岡と大船渡を結ぶ路線では中央バス・東部バス・県南バスの3社競願となり、最終的に県南バスが運行することとなった。

しかしながら、この時期はまだ道路事情はさほど良くなかったため、東北本線と並行する路線では鉄道の電化・複線化には対抗力を持たせることができず、運行休止や区間短縮を余儀なくされた。一方で、その他の路線では鉄道側の輸送改善があまり進まなかったため、他の地域と比較すれば残存路線は多い方であった[4]
利用者減少と労使紛争による疲弊

1960年代に入ると、過疎化とモータリゼーションの進行により、バス利用者数は減少傾向となっていった[5]。事業者側ではこれに対応して合理化と人員削減による対策を進めようとしたが、これは従業員側の反発を招いた。さらに賃金遅配という事態になったことから、労使関係は悪化してゆくことになる。

1965年、中央バスでは盛岡市内路線で県内初となるワンマンバス運行を開始した。これに反発した労働組合が、4月の春季労使交渉(春闘)に続いて5月にもストライキを実行。7月には夏の賞与をめぐって無期限ストライキに突入し、収束するまでに50日を要した。盛岡市の商店街ではストライキの中止を申し入れたが解決できず、「バススト対策協議会」として200台の自家用車を使用して全商店街を無料で巡回するサービスを開始した。地元の中央バスに対する不信感は強まり、飲食店の一部は店頭に「中央バス社員お断り」と貼り紙を出すほどであった[6]。発車直前の「ポカ休」と呼ばれる無断欠勤、それに伴う間引き運行も常態化しており、早池峰山登山バスの最終便を運休させたことで、登山客が下山できなくなってしまうケースもあった[6]

1966年には県南バスが一関地区の路線でワンマン化を開始したが、労働組合では事前協議なしの運行であるとしてストライキに突入した。同年9月には水沢地区でワンマン化を行なったことで労働組合側は闘争体制を強めることになり、指名ストを通告したが、これに対する会社側はロックアウトを宣言した上に、調整に入ろうとした地方労働委員会(地労委)の斡旋を拒否した。12月に地労委が調停に入ったことで収束したが、この間はストライキや間引き運行が多発した。闘争の拠点となった江刺市では市議会で「バスの正常運行を求める決議」まで行われ[7]、地域の農業協同組合などでは自衛手段としてバスを自ら購入した[7]

ストライキや間引き運行が続き、沿線の住民からのバス事業者に対する印象は悪化することになった。沿線住民はバスがなくても通勤通学できる手段を用意し、沿線企業では自家用バスによる送迎を行うなど自衛手段に努めた[5][8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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