logo岩崎城
(愛知県)
岩崎城 模擬天守
城郭構造平山城
天守構造なし
望楼型3層4階、(RC造り)模擬
築城主不明(織田信秀?)
築城年室町時代末期[1]
主な改修者丹羽氏清
主な城主織田氏・松平氏・丹羽氏
廃城年1600年
遺構曲輪・空堀・土塁・土橋・建造物跡・井戸跡など
指定文化財未指定
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度08分42.3秒 東経137度02分33.3秒 / 北緯35.145083度 東経137.042583度 / 35.145083; 137.042583
岩崎城(いわさきじょう)は、尾張国山田郡[注 1](のち愛知郡)岩崎(現愛知県日進市岩崎町)にあった戦国時代の日本の城(平山城)。 室町時代末期(15世紀末から16世紀前葉ころ)に築城され慶長5年(1600年)に廃城となった[1][2]。もっとも古い記録によると尾張国勝幡城(現在の愛知県愛西市)主・織田信秀(織田信長の父)の支城だった。 天文20年(1551年)、岩崎城主丹羽氏清・氏識(うじさと)親子に対して、一族の藤島城(現在の日進市藤島町)主・丹羽氏秀
概要
享禄(岩崎)の戦いの守備する岩崎城を尾張国攻略の足がかりとして兵7000を率い攻め落とした。しかし天文4年(1535年)「森山崩れ」により清康が死去すると松平氏の勢力は岩崎城から後退し、松平氏の案内人として行動していた本郷城
横山の戦い
氏秀は当時17歳であった織田信長に援軍を求め、信長軍が横山(現在の日進市岩崎町北高上付近)に差し掛かったところ、信長軍の進軍を聞きつけ待ちかまえていた岩崎丹羽軍が急襲し信長軍は敗退、氏秀親子は三河へ逃げ延びた。
この戦いは、寛政2年(1790年)3月丹羽氏福が丹羽氏の事績を著した「丹羽氏軍功録」のみに出てくる記述であり、真偽のほどは定かではない。 天正12年(1584年)に起きた岩崎城の戦いとは、小牧・長久手の戦いのうち長久手の戦いの緒戦となった戦いである。両軍の膠着状態を打ち破るため、秀吉方によって実行された「三河中入(なかいり)」作戦を阻止し、池田軍の進軍を止めたという点で大きな功績を残した戦いであった。この時の当主・丹羽氏次はこの戦いで弟の氏重を失ったが、家康からの信頼を得てその後の戦いにも多くの功績を挙げることとなる。 長久手の戦いの後、落城した岩崎城が再建されたかは確かではないが、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで丹羽氏次は徳川方として参戦、その功績を認められ三河国伊保(現在の愛知県豊田市)1万石の大名として栄転し、岩崎城はここで廃城となる。 廃城後は300年以上も整備されることは無く、本丸跡は畑となっていた。明治43年(1910年)に旧尾張藩士らの手により、岩崎城の戦いで戦死した丹羽軍将兵を慰めるため、「表忠義」の題を持つ記念碑が本丸の櫓台に建てられた。
小牧・長久手の戦いと岩崎城の戦い
落城後の岩崎城
現在の岩崎城「表忠義」
岩崎城在名古屋之東南距岡崎北距小牧各数里小牧之役城主丹羽氏次従徳川氏之軍弟氏重留守敵将池田信輝欲襲岡崎間道潜兵過其城下氏重年甫十六患痘臥蓐聞敵至蹶然執刀而木起母氏見之喜歎交至謂日汝兄従軍汝以死禦敵我興汝共死不以為憾也取鎧授氏重拝謝揮老幼婦女避干城外妙仙寺跨白馬提長槍而出士卒感奮里民工商懐・・・ ? 『愛知県史蹟名勝天然記念物調査報告書』「岩崎城址」大正15年より抜粋[3]