岩屋(いわや)は神戸市灘区の大字の一つであり、本村は同区南西部の岩屋南町・岩屋中町・岩屋北町にあるが、住居表示未実施で残っているのは入会山として飛び地だった部分である。
大字としての岩屋は現在東は同じく元・原田村の入会山である大字原田、南と西は中央区葺合町、北は僅かに摩耶山町と接する。
令和2年国勢調査(2020年10月1日)において定住人口はみられない[1]。郵便番号:657-0803 現在は岩屋中町四丁目に存在する敏馬神社(みるめじんじゃ)は?売(みるめ)社として記載された延喜式内社である。かつて土地の人は嫁入りの際これを「延喜式」を「縁切り」と訛って前を通るのを避けたという風習があった。
由来
福原会下山人はまた、敏馬の森が古墳だった(岩で家をこしらえた)から岩屋になったとも唱えている。
旧字名に島田、屋形、浜屋形、濱田、前浜、寺内、当免、坤(ひつじさる)、松本、池尻、中浜、西坂口、庄堺(しょうかい)、水戸、北ノ口、上沢、唐戸前がある。島田は岩屋南町にあった摩耶山天上寺の御朱印地十石があり島田と呼ばれ、この地に多い島田姓はこれに因む。唐戸前の唐戸は、新羅などからの来朝者に対し、生田神社で作った酒を敏馬神社で供した記録があり、韓人に対する戸という意味か[2]。坤は西の方角。庄堺は灘区の殆どにあたる都賀庄と呼ばれた荘園の西南の境界を示す傍示(印に立てる杭)のあった場所と伝えられる。 岩屋の地家主は生島五三郎(資産家、兵庫県多額納税者、松屋、金銭貸付業)[5][6]、安国幸左衛門[7]などがいた。安国幸左衛門の姉は生島五三郎の妻である[7]。
経済
産業
商工業
島田外和(割烹業)[3]
島田文一郎(島文商店、鉄直輸入商)[4]
安国善次(米商)[5]
水産業
島田文治郎[4]
地主・家主
脚注^ “国勢調査による町別、年齢別人口及び世帯数
^ a b c 『灘区の町名』
^ 『日本紳士録 第26版』神戸し之部108頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月18日閲覧。
^ a b 『日本紳士録 第41版』兵庫シの部82頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月18日閲覧。
^ a b 『日本紳士録 第32版』神戸イ、ヰの部13、ヤの部178頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年2月22日閲覧。
^ 『人事興信録 第10版 上』イ119頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月18日閲覧。
^ a b 『人事興信録 第14版 下』ヤ29頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月18日閲覧。
参考文献
交詢社編『日本紳士録 第26版』交詢社、1921年。
交詢社編『日本紳士録 第32版』交詢社、1928年。