この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "岩名雅記"
いわな まさき
岩名 雅記
プロフィール
出生地 日本・東京都[1]
死没地 フランス・ノルマンディー
生年月日1945年2月
没年月日2020年11月11日
所属映像・舞踏研究所
La Maison du Butoh Blanc(主宰)
映像制作集団・Solitary Body(主宰)
活動
活動期間1960年代末 - 2020年
声優:テンプレート | プロジェクト | カテゴリ
岩名 雅記(いわな まさき、1945年2月 - 2020年11月11日)[1]は、日本の舞踏家、舞踊教師、映像作家。元声優、以前は劇団人間座、劇団三十人会、東京俳優生活協同組合に所属していた。東京都出身。フランス・南ノルマンディーに在住していた。 1945年2月、東京都大森区(現大田区)馬込に生まれる。幼少期はよく乗り物酔いをする虚弱な子供であった。母親が能を習っていた関係で、謡曲を習ったり能の舞台に接したりする機会がしばしばあった。1960年、慶應義塾志木高等学校に入学。同高校には農業を学ぶ授業があり、そこで土に親しむ。1963年、慶應義塾大学経済学部に入学。本人は文学部志望であったが、父親の強い希望で経済学部を選択[2]。1967年、慶應義塾大学卒業後、ドラマ演出を目指して東京放送(TBS)に入社するも当時すでにドラマ制作の主体がキー局から下請けの制作会社に移っており、2年半で同社を依頼退社。以降俳優として劇団人間座、劇団三十人会など演劇世界に身を置く。同時に東京俳優生活協同組合に所属して1970年代前半には『イナズマン』シリーズのウデスパー役など連続テレビ映画や外国映画の声優として活動した。 1975年、30歳にして単独でソロ舞踊を開始。当初は「名付けようのない身体行為」と自称、指圧やヨガ教師として生計を立てながら、1984年までに全裸、不動、垂立という従来の舞踊概念を破る『非舞踊(アンチダンスならぬノンダンス)』の実験的ソロ・パフォーマンスを150回以上にわたって展開する。1983年には仏アビニョン・シャルトレーズ国際演劇祭
人物・来歴
1985年東京・馬込に舞踏研究所 白踏館(はくとうかん)を開設するも1988年秋にパリに移住。
1992年には国際交流基金主催の東欧文化使節派遣アーティストとしてロシア、ルーマニアで公演する一方、劇団「野戦の月」(桜井大造主催)にも客演する。
1995年フランス・南ノルマンディーに200年前の旧農家を改造した自らのアトリエを開設し、1996年から10年間にわたる国際舞踏ワークショップ『世紀を超えて』を開始。1998年からはアートフェスティバル『ダンスディレクト(直接性のダンス)』を開始する。2006年より5年間ごとにテーマを変え、国際舞踏ワークショップ『緑のユトーピオ』、『re-BE再存』、『Eternity永遠』を継続。同時に毎夏、舞踏フェスティバル「Verda Utopio」を開催。
概して岩名の踊りは<個々人が自らの中に内包する体験や記憶を、形象として外部へ引き出していく>個的な舞踏を信条とし、「全裸の捨て身と爪先立ちの危機感」(舞踏評論家・合田成男)、「観客が傍観者であることを許さない舞踏」(グラスゴー紙/グレアム・ノーブル)と評された独自の世界観で人々を魅了、現在まで70カ国200都市でソロ活動とワークショップを展開している。
これまでの代表的なソロ作品には「生成(なまなり)」(1985)、「すさび」(1989)、「冷曲」(1990)、「水引に胡蝶」(1992)、「ジゼル伝」(1994)、「式子内親王伝」(1996)、「ローリーゴッド」(1999)、「あさじふ」(2001)、「絢爛」(2002)、「レディボーイ イワンイリイチの生涯」(2016)などがある。