岩倉_(京都市)
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岩倉(いわくら)は、京都府京都市左京区南部に位置する地域。ここでは「岩倉」を町名に冠する京都市左京区の各町を包括する広域地名として用いる。

岩倉
いわくら
日本
地方近畿地方
都道府県京都府
自治体京都市
行政区左京区
旧自治体愛宕郡岩倉村
世帯数11,453世帯
総人口28,802人(国勢調査結果に基づく毎月推計人口、2017年6月)
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国立京都国際会館(岩倉南大鷺町)岩倉具視幽棲旧居(岩倉上蔵町)岩倉川の桜並木(岩倉南四ノ坪町)
概要

山林部が大半を占める左京区全体で見れば南半部に位置するが、京都市中心部(市街地)からはやや東北に離れた近郊地域である。北方の若丹山地と南方の松ヶ崎丘陵(宝ヶ池周辺の丘陵地)に囲まれた岩倉盆地を中心とする地域で、鉄道や主要道路に沿って形成された小市街地が盆地の中心部になっている。盆地中央部を岩倉川、西部を長代川、東部を長谷川、南部を花園川が流れ、これらを併せた岩倉川は東接する上高野地域に入って高野川に合流する。

第二次世界大戦後の急速な開発の進展により、近郊住宅地および文教地区として知られるようになったが、大部分が第一種低層住居専用地域となっているため、農地や山林部も市街地の周辺にはまだまだ豊かに残っている。

境域はかつての京都府愛宕郡岩倉村にほぼ一致する。

現在は地下鉄も開通し、同志社小学校の開校などもあり人口が増加しているが、小売店が20時閉店するなど閑静で人気の住宅地となっている。特に岩倉南地区は高級住宅街として知られている。
歴史
地名の由来

「岩倉」の名は古代の磐座信仰(天から降臨した神が巨石に安座するというもの)に基づくものであり、現在の山住神社(岩倉西河原町)にある巨石が神体となり「石座(いわくら)神社」(もしくは石座大明神)と称されたのが地名の由来である。(なお石座神社971(天禄2)年大雲寺創建の際、その鎮守社として現在地に遷座された。元の石座神社は、新しい石座神社の御旅所として山住神社となった)。また平安京造営時に都の守護のため、京の四方の山上に一切経を納め東西南北の名を冠する4つの岩蔵が設けられた際、この地にもその岩蔵の一つが置かれたことに由来するともいう。平安時代の文献には「石蔵」として現れ、「岩倉」となったのは鎌倉時代以降である。他には「岩蔵」「石倉」「石座」などの表記もあった。
地域の歴史
前近代(山城国愛宕郡下)

5世紀後半以降に開拓が始まった岩倉盆地では、幡枝などで早い時期から集落が形成されており、律令制のもとで幡枝の集落は山城国愛宕郡栗野(くるすの)郷、岩倉の集落は小野郷に属した(『和名抄』)。平安時代以降、岩倉は貴人の別荘地・隠棲地や病者のための静養地とされるとともに、大雲寺実相院聖護院(のち現在の左京区聖護院に移転し現在に至る)など多くの寺院・神社が創設、これら寺社の所領地となった(なかでも岩倉は実相院、長谷は聖護院の所領地として幕末に至った)。

中世になると文明年間(1469年 - 1487年)、近江佐々木氏の被官であった山本氏がこの地に勢力を拡大し、是応の峰(旧大雲寺の南)に居城を築いて本拠地とし、岩倉と長谷にまたがる小倉山に山城(小倉山城)を築き、若狭街道の京への出入り口であった岩倉地域を押さえ一大勢力となった。しかし永禄11年(1568年足利義昭を奉じて上洛した織田信長によって山本氏は危険視され、その攻撃を受け落城、岩倉盆地を撤退し旧領の近江に退いたため、その所領地は禁裏御料地となった。

江戸時代の岩倉地域には愛宕郡下の村として岩倉川沿いに北岩倉村(岩倉村)・中村、長谷川沿いに長谷村、花園川沿いに花園村、長代川沿いに幡枝村などの村がおかれ、農林業を主要な産業としていた。これらの村は寺社領・公家領もしくは禁裏・法皇の御料地としてさまざまな特権を享受し、地域内に存在する多くの社寺の本山のある京とのつながりを強めていった。また近世以降の岩倉は精神病の療養地として広く知られるようになり、村内には療養のため訪れた病者を泊める「茶屋」が多く設けられ、これが明治以降の「保養所」へと発展していった。
近代(京都府愛宕郡岩倉村)詳細は「岩倉村 (京都府)」を参照

明治時代に入って1889年町村制施行で岩倉地域の5ヵ村は岩倉村として統合された。これに先立つ1873年には早くも村立小学校として岩倉小学校が開校、同校はその後「明徳尋常小学校」(現在の明徳小学校)と改称し、その後久しく地域内唯一の公立学校となった。また1884年には実相院近くに「私立岩倉癲狂院」が設立(のち私立岩倉病院と改称)、1945年に閉院となるまで京都府下でも有数の精神科医療の中心となった。明治時代末においてもこの地域は全くの農村であり、農林業を主とし副業も縄綯い・薪とり・かわらけ作りなどであった。村外に出て京都市へと出稼ぎにいく者は限られていたため、村の風習として広く行われていた精神病患者の預かりや里子の養育(岩倉具視大谷光瑞東久邇宮稔彦王朝香宮鳩彦王も岩倉の農家に里子として預けられていたことがある)は、それと引き替えに得られる礼金により乏しい農業収入を補うという意味あいが強かった。

この当時、村内の集落は岩倉盆地北半部(すなわち現在の叡山電鉄鞍馬線以北)に集まっており、それより南の地域は低湿地が多く水田がひろがっていた。また京都へと向かう村の主要な道路は、盆地中心部を通り岩倉盆地中心部を通り狐坂(現在の宝ヶ池トンネル付近)を下って松ヶ崎へと抜けていく「八丁街道」(現在の十王堂橋西 - 岩倉1号踏切 - 椿の道 - 城橋 - 京都グランドプリンスホテル横 - 宝ヶ池旧道 - 狐坂旧道 - 新宮神社前 - 松ヶ崎通旧道)と幡枝から盆地の西側を抜けていくルートの2つがあり、いずれも道幅が狭隘で急な傾斜の坂道があったため荷車の通行に難渋していた。しかし1895年、平安建都1100年を記念して村の東側を通り上高野・修学院へと抜けていく「京街道」(現在の白川通旧道 - 川端通 - 大原道)が拡張改修された結果、村から京都に向かう荷車の往来が格段に便利になって急増し、逆に八丁街道などの古い街道は次第にさびれていった。

さらに1928年(昭和3年)の鞍馬電気鉄道(現叡山電鉄鞍馬線)開通が村にとっての画期となった。山端から市原まで鉄道が延伸され、村内には岩倉木野の2駅が開業、岩倉地域と京都市内が近代的交通機関で直結されることになった。また同じ頃、京街道を通り盆地東部の三宅八幡と出町柳を結ぶ乗合馬車や洛北自動車(現京都バス)のバス1922年)が運行を開始し、さらに1925年頃、村の東部から中心部(忠在地町など)を結ぶ道(現在の府道105号岩倉山端線)が拡幅されてバス路線が延伸した(現在の京都バス岩倉線)ため、これにより多くの村民が京都市内に出稼ぎに行ったり通学したりすることが可能になり、次第に出稼ぎ労働の副業収入が米作を中心とする農業収入を圧倒するようになる。八幡前駅に近い花園地区から次第に住宅地が広がっていった。

しかし程なくして本格化した1930年代前半の農業恐慌と、1935年の大水害は村民の生活を直撃し、岩倉村がこのダメージから回復するには長い時間を必要とした。その一方で同時期の1929年には同志社高等商業学校(現・同志社大学商学部)が京都市内から岩倉村に移転することとなり、その後岩倉が文教地区として開発される端緒が作られたが、この際多くの村民が集落から遠く農業に適さない盆地南部の湿地帯の農地を同志社に売却しており、これが現在の同志社岩倉校地の起源となっている。

第二次世界大戦後、通勤・通学など京都市との関係がますます強められていったことを背景に村内では合併の気運が高まり、1949年岩倉村は京都市に編入合併された。
戦後(京都市左京区岩倉)

京都市合併後、しばらくの間は住民の生活が大きく変化することはなかった。しかし1960年代に、盆地南部の低湿地を埋め立て国立京都国際会館が建設されたのをきっかけに、地区の発展が加速した。国際会館へのアクセス道路として、宝ヶ池通(1965年開通)、白川通(1967年開通)が整備されたことに加え、岩倉盆地を「緑園都市」にする計画のもと、1965年9月に洛北第一地区区画整理事業が決定された[1]


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