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日本の政治家.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}岩倉(いわくら) 具視(ともみ).mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}岩倉 具󠄁視󠄁
生年月日1825年10月26日
(文政8年9月15日)
出生地山城国京都
没年月日 (1883-07-20) 1883年7月20日(57歳没)
死没地 日本 東京府東京市
称号贈太政大臣
贈正一位
大勲位菊花大綬章
配偶者先妻:岩倉誠子
岩倉 具視(いわくら ともみ、旧字体:岩倉 具󠄁視󠄁、1825年10月26日〈文政8年9月15日〉- 1883年〈明治16年〉7月20日)は、日本の公家、政治家。雅号は対岳。謹慎中の法名は友山。補職・位階勲等は、贈太政大臣贈正一位大勲位。維新の十傑の1人。 公卿・堀河康親の次男として京都で生誕。母は勧修寺経逸の娘・吉子。幼名は周丸(かねまる)であったが、容姿や言動に公家らしさがなく異彩を放っていたため、公家の子女達の間では「岩吉」と呼ばれた。朝廷に仕える儒学者・伏原宣明に入門。伏原は岩倉を「大器の人物」と見抜き、岩倉家への養子縁組を推薦したという。 天保9年(1838年)8月8日、岩倉具慶の養子となり、伏原によって具視の名を選定される。10月28日叙爵し、12月11日に元服して昇殿を許された。翌年から朝廷に出仕し、100俵の役料を受けた。 岩倉家は羽林家の家格を有するものの、村上源氏久我家から江戸時代に分家した新家であるため、当主が叙任される位階・官職は高くなかった。また代々伝わる家業も特になかったので、家計は大多数の堂上家同様に裕福ではなかったという[注釈 1]。 嘉永6年(1853年)1月に関白・鷹司政通へ歌道入門するが、これが下級公家にすぎない岩倉が朝廷首脳に発言する大きな転機となる。 朝廷改革の意見書を政通に提出し、積立金を学習院の拡大・改革に用い、人材の育成と実力主義による登用を主張した。公家社会は身分が厳しく、家格のみで官位の昇進まで固定されていた。大多数の下級公家は朝議に出席できる可能性も薄かった。聴取した鷹司は意見書に首肯したものの、即答は避けたとされる[1]。 安政5年(1858年)1月、老中・堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得るため上洛。関白・九条尚忠は勅許を与えるべきと主張したが、これに対して多くの公卿・公家から批判をされた。 岩倉も条約調印に反対の立場であり、大原重徳とともに反九条派の公家達を結集させ、3月12日には公卿88人で参内して抗議した。九条尚忠は病と称して参内を辞退した。しかし、岩倉は九条邸を訪問して面会を申し込んだものの、同家の家臣たちは病を理由に拒否したが、面会できるまで動かなかった岩倉に対し、九条は明日返答する旨を岩倉に伝えた。岩倉が九条邸を退去したのは午後10時を過ぎていたという(いわゆる「廷臣八十八卿列参事件」)。 3月20日、堀田正睦は小御所に呼ばれて孝明天皇に拝謁したが、そのとき天皇は口頭で「後患が測りがたいと群臣が主張しているので三家・諸大名で再応衆議したうえで今一度言上するように」と伝える。群臣とは岩倉ら反対派公卿のことで、岩倉らの反対によって勅許は与えられなかった。岩倉による初めての政治運動であり、勝利であった。 列参から2日後の3月14日、政治意見書『神州万歳堅策』を孝明天皇に提出している。その内容は、 などを記している。しかし一方で単純攘夷は否定し、
生涯について
出生から若年期
八十八卿列参事件
日米和親条約には反対(開港場所は一か所にすべきであり、開港場所10里以内の自由移動・キリスト教布教の許可はあたえるべきでなかった)
条約を拒否することで日米戦争になった際の防衛政策・戦時財政政策
相手国の形成風習産物を知るために欧米各国に使節の派遣を主張する。