岩倉使節団
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左から木戸孝允山口尚芳岩倉具視伊藤博文大久保利通.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに岩倉公実記の原文があります。

岩倉使節団(いわくらしせつだん)は、明治維新期の明治4年11月12日1871年12月23日)から明治6年(1873年9月13日まで、日本からアメリカ合衆国ヨーロッパ諸国の米欧12ヶ国に派遣された使節団である。岩倉具視を特命全権大使とし、首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。当初の目的であった不平等条約改正の交渉は果たせなかったものの、日本近代化の原点となる旅として、明治政府の国家建設に大きな影響を与えたことから、日本の歴史上でも遣唐使に比すべき意味をもつ使節とも言われる[1]
概要
背景

1870年7月に北ドイツ連邦 プロイセン王国フランス帝国の間に勃発した普仏戦争は、ドイツ側の連合国が1871年1月に統一されドイツ帝国が成立、同年4月にはビスマルク憲法が施行され、5月には戦争が終結していた。

ただ、1870年10月に日本政府が北ドイツ連邦フランクフルトの印刷会社ドンドルフ・アンド・ナウマン社に注文した偽造通貨対策のための紙幣(明治通宝と呼ばれる)は、使節団が出発した1871年11月にはまだ届かなかった。
出発

明治4年(1871年)11月12日(陰暦)に米国太平洋郵船会社(英語版)の蒸気船「アメリカ(英語版)」号で横浜港を出発し、太平洋を一路カリフォルニア州 サンフランシスコに向った。その後アメリカ大陸を横断しワシントンD.C.を訪問したが、アメリカには約8か月もの長期滞在となる。その後大西洋を渡り、ヨーロッパ各国を歴訪した。ウィンザー城 (1872年)

使節団はキュナード社の蒸気船オリムパス号に乗船して、1872年8月17日にイギリスのリヴァプールに到着した。ロンドンから始まり、ブライトンポーツマス海軍基地マンチェスターを経てスコットランドへ向かう。スコットランドではグラスゴーエディンバラ、さらにはハイランド地方にまで足を延ばし、続いてイングランドに戻ってニューカッスル、ボルトン・アビー、ソルテアハリファクスシェフィールドチャッツワース・ハウスバーミンガムウスターチェスターなどを訪れて、再びロンドンに戻ってくる。1872年12月5日はウィンザー城ではヴィクトリア女王にも謁見し、世界随一の工業先進国の実状をつぶさに視察した。1873年3月15日にはドイツ宰相ビスマルク主催の官邸晩餐会に参加。

ヨーロッパでの訪問国は、イギリス(4か月)、フランス(2か月)、ベルギーオランダドイツ(3週間、独語版)、ロシア(2週間)、デンマークスウェーデンイタリアオーストリアウィーン万国博覧会を視察)、スイスの12か国に上る。帰途は、地中海からスエズ運河を通過し、紅海を経てアジア各地にあるヨーロッパ諸国の植民地セイロンシンガポールサイゴン香港上海等)への訪問も行われたが、これらの滞在はヨーロッパ各国に比べ短いものとなった。

当初の予定から大幅に遅れ、出発から1年10か月後の明治6年(1873年)9月13日に、太平洋郵船の「ゴールデンエイジ」号で横浜港に帰着した。留守政府では朝鮮出兵を巡る征韓論が争われ、使節帰国後に明治六年政変となった。

元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものとなる。政府首脳の半数近くが長期間外遊するというのは極めて異例なことだった[2]が、直に西洋文明や思想に触れ、しかも多くの国情を比較体験する機会を得たことが彼らに与えた影響は大きかった。また同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍し、日本の文明開化に大きく貢献した。しかし一方では権限を越えて条約改正交渉を行おうとしたことによる留守政府との摩擦、外遊期間の大幅な延長、木戸と大久保の不仲などの政治的な問題を引き起こし、当時「条約は結び損い金は捨て 世間へ大使何と岩倉(世間に対し何と言い訳)」と狂歌に歌われもした。

使節団のほとんどは断髪・洋装だったが、岩倉はと和服という姿で渡航した。この姿はアメリカの新聞の挿絵にも残っている。日本の文化に対して誇りを持っていたためだが、アメリカに留学していた子の岩倉具定らに「未開の国と侮りを受ける」と説得され、シカゴで断髪。以後は洋装に改めた。
目的
条約を結んでいる各国を訪問し、
元首に国書を提出する[3]

江戸時代後期に諸外国と結ばれた不平等条約の改正(条約改正)のための予備交渉

西洋文明の調査

使節団の主目的は友好親善、および欧米先進国の文物視察と調査であったが、各国を訪れた際に条約改正を打診する副次的使命を担っていた。明治政府は旧幕府と締約された各種条約を新政府のものとに置き換えるべく明治初年度から順次交渉を続けていたが、1872年7月1日(明治5年6月26日)をもって欧米十五カ国との修好条約が改訂の時期をむかえ、以降1ヵ年の通告を持って条約を改正しうる取り決めであったので、明治政府はこの好機を捕えて不平等条約の改正を図ったのである[4]


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