岡部達
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2022年8月29日 (月) 08:24 (UTC)貼付。(表示終了予定:2022年9月5日 (月) 08:24 (UTC))

おかべ たつ岡部 達
プロフィール
出身地 台湾 台北州
(現: 台湾台北市
生年月日 (1934-11-17) 1934年11月17日
没年月日 (2022-08-26) 2022年8月26日(87歳没)
最終学歴早稲田大学教育学部
職歴ラジオ東京→TBSアナウンサー ほか
活動期間1957年 - 1986年
1988年 - 1992年
ジャンルスポーツ、音楽、報道・情報
出演番組・活動
出演経歴スポーツ中継
3時にあいましょう
など
その他退職後は、TBSアナウンススクール特別講師などを務める。
アナウンサー: テンプレート - カテゴリ

岡部 達(おかべ たつ[1]1934年11月17日[2] - 2022年8月26日)は、日本アナウンサー

日本統治時代台湾台北市出身[3]ラジオ東京→TBS[注釈 1]で活動していた。
経歴・人物

早稲田大学教育学部[4]を卒業して[5]1957年4月にラジオ東京(現・TBS)へアナウンサー5期生として入社(同期には青柳純一、金坂光春、仁村秀雄、山本文郎、麻生雅子、石川知子、大場ゆかり、草間範子、佐藤美智子、鈴木美江、須藤孝子、前田和子、町田教子[注釈 2]、三好和子)[7]。主にスポーツ実況(野球、ボクシング、フィギュア、ラグビー、アイスホッケー)やラジオDJを担当していた[8]1963年11月1日に報道局運動部兼ニュース部アナウンサーとなる[9]。1967年11月15日にアナウンサー研修室設置に伴い報道局運動部兼アナウンサー研修室付[10]1970年7月にラジオ本部アナウンス室兼テレビ本部報道運動部勤務の後[8]1977年3月にラジオ本部アナウンス室(1983年6月29日にラジオ本部アナウンス部に組織変更[11])のみ所属となる[8]近代オリンピックでは1964年東京)と1972年札幌)の二度にわたり実況を担当[5]。このうち、札幌の開会式ではテレビ中継を担当した[8]ボクシング中継では具志堅用高WBA世界Jフライ級(ライトフライ級)チャンピオン初挑戦(対ファン・ホセ・グスマン)を担当[8]以来、13回目のタイトル防衛戦まで担当した(王座陥落の14回目は、平原晋太郎が担当[注釈 3])。1986年5月に秘書室へ異動[8]しアナウンス職から離れる。

1988年2月のテレビ本部社会情報局異動[8]後は、4月から1992年3月までの4年間城戸真亜子と共にワイドショー番組『3時にあいましょう』のメインキャスターを務めた。

1992年6月にテレビ総局ネットワーク局JNNネットワーク協議会事務局へ異動[8]後、1994年11月にTBSを定年退職[8]。定年退職後は、短期大学講師やTBSアナウンススクール特別講師を務める[5]

2022年8月26日、前立腺がんのため、死去[13]。87歳没。8月29日、告別式が営まれた[14]
家系

安川敬一郎の叔父である福岡藩士・儒者の岡部榴園は祖父である。[15]
詳細情報
出演番組
スポーツ中継

プロ野球中継テレビ中継・ラジオ中継『TBSエキサイトナイター』)[5]

日本選手権シリーズ

オールスターゲーム


ボクシング中継(『東洋チャンピオンスカウト』など)[8]

WBA世界ライトフライ級タイトルマッチ


世界フィギュアスケート選手権大会(テレビ)[5]

アイスホッケー中継[8]

マラソン中継[5]

レスリング中継[5]

スポーツ中継以外
ラジオ


若い目のパリ(1961年)
[8]

今週のベストテン(1963年)[8]

フェザー・シルバー・タイム(1963年)[8]

パーソナル・ダイヤル(1967年)[8]

ミュージックパトロール(1970年)[8]

ミュージック・オン・ステージ(1974年)[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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