凡例岡部 元信
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕不明
死没天正9年3月22日(1581年4月25日)
改名元綱、元信
別名長教、真幸、元綱、(通称)五郎兵衛
官位丹波守
主君今川義元→氏真→武田信玄→勝頼
氏族岡部氏(藤原南家工藤氏)
父母父:岡部親綱
兄弟一説に正綱、長秋、元信(長教)
子真堯、元昌
岡部 元信(おかべ もとのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。今川家の家臣。後に甲斐武田家の家臣。 通称は五郎兵衛、受領名は丹波守。名(諱)は元信のほか、よく知られるものには長教(ながのり)があり[注釈 1]、そのほか真幸(さねゆき)・元綱(もとつな)も、元信の別名であると推測されている。このうち、元信・元綱の「元」の字は、今川氏の家臣だった間に主君の今川義元から偏諱を与えられたものであり、真幸も、義元の子・氏真から重ねて偏諱(「真」の字)を賜う形で名乗ったものである[1]。 岡部家の本貫は駿河志太郡岡部(現在の静岡県藤枝市岡部町)で、朝比奈信置や孕石元泰と並ぶ駿河先方衆の1人であった[2]。父は岡部親綱(玄忠)である。また弟が少なくとも2名以上いたことが分かっている[3]。系図類などでは岡部久綱(信綱)の子である岡部正綱の弟とされることが多いが、岡部元信(小次郎元綱)の初見は天文11年(1542年)であり、これは正綱の生年と同じである。また父親が明らかに別人であり、実際の所は不明である。 父の岡部親綱は今川氏の重臣であり、今川義元の家督相続に重要な役割を果たした。岡部元信自身も遠江および三河の平定に大きく貢献した武将の1人であった。天文17年(1548年)の第2次小豆坂の戦いでは筋馬鎧に猪の立物をつけて力戦し、今川軍の勝利に貢献した[2]。天文18年(1549年)の安祥城の戦いでも戦功を挙げる[2]。 時期は不明だが、一時的に知行を没収され甲斐の武田信玄の元に身を寄せており、この際に信玄から「信」の偏諱を受けたとされる。通常武田氏の偏諱による「信」は上に置かれる例がほとんどであるが、当時、岡部元信は今川家臣であったから今川義元から下賜された「元」の字を優先したと深沢修平は述べている[4]。深沢は桶狭間の戦い直後に出された元信宛の武田信玄書状から、元信が今川家臣時代から武田氏と深く関わりを持っていたことを指摘している[4]。 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでは岡部元信は鳴海城(当時、織田軍との最前線の城)を拠点に、織田勢と戦いを繰り広げた。主君・今川義元が織田信長に討たれた後も岡部元信は抵抗し続け、信長が差し向けた部隊をことごとく撃退した。そして、岡部元信が主君・今川義元の首と引き換えに開城を申し入れたことに[5]、織田信長はその忠義に感動して今川義元の首級を丁重に棺に納めた上で送り届けたと伝わる[2]。岡部元信は主君・今川義元の棺を輿に乗せて先頭に立て、ゆうゆうと鳴海城を引き払った[2]。そして駿府へ帰還する途次、戦功の無いまま帰るを良しとせず刈谷城を100余の手勢で攻撃し、水野信近を討ち取り、城を焼き払った[2]。この岡部元信の奮戦を今川氏真は喜び、6月8日付で岡部元信に対し感状を与えている[2]。この際に以前没収された知行を還付されたが、旧領の相続を巡って弟二人と訴訟問題となったらしい[4]。 今川義元の没後も岡部元信は引き続き今川氏に仕えたが、永禄11年(1568年)12月、武田信玄の駿河侵攻によって今川氏真が駿府を脱出した。当初、岡部元信は今川氏真と行動を共にし、後北条氏の元に身を寄せたが、後に武田軍に降伏した[4]。
素性
生涯
今川家の重臣として
桶狭間の戦いと今川家の没落
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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