岡譲司
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おか じょうじ
岡 譲司
1920年代の写真。
本名中溝 勝三 (なかみぞ かつぞう)
別名義美濃部 進 (みのべ すすむ)
岡 譲二 (おか じょうじ)
生年月日 (1902-05-25) 1902年5月25日
没年月日 (1970-12-17) 1970年12月17日(68歳没)
出生地 日本 東京府東京市京橋区越前堀(現在の東京都中央区新川
死没地 日本 東京都渋谷区代々木
職業俳優
ジャンル劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間1928年 - 1968年
配偶者澤蘭子
(1931年 - 1937年 内縁)
田中都美子
(1938年 - 離婚)
著名な家族真山譲次(長男)
主な作品
『赤い灯青い灯』
生さぬ仲
非常線の女
婦系図
検事とその妹
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岡 譲司(おか じょうじ、1902年5月25日 - 1970年12月17日)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10]。本名は中溝 勝三(なかみぞ かつぞう)。旧芸名は美濃部 進(みのべ すすむ)、岡 譲二(読み同じ)[1][2][3][4][6][7][8][9][10]
人物・来歴

1902年明治35年)5月25日日曜日)、東京府東京市京橋区越前堀(現在の東京都中央区新川)に生まれる[1][2][7]。祖父は佐賀藩勘定方を務め、父は三十五銀行(現在の静岡銀行)の頭取であったというが[1]、氏名などは不明である。

画家志望であったが、立教大学商科に進学、同学を卒業し、日本蓄音器商会(現在の日本コロムビア)広告宣伝部に入社する[1]。同社で同部長に昇進したが、日活宣伝部員の友人の誘いを受けて退社、満26歳である1929年(昭和4年)初頭に日活太秦撮影所現代劇技芸部に入社、同年2月8日に公開された『栄冠』で映画界にデビューとされるが[1][2]、前年の1928年(昭和3年)9月27日に公開された池田富保監督による大作『維新の京洛 竜の巻 虎の巻』に、島津久光役で出演しており「美濃部 進」の名ですでにクレジットされている[3][9]。同社では、おもに現代劇に出演、1929年7月6日に公開された徳永フランク監督の『赤い灯青い灯』で主演に抜擢される[1][2][3][9]

1931年(昭和6年)、宝塚少女歌劇団出身の女優、澤蘭子と恋愛および失踪事件を起こし、同年10月1日に公開された池田富保監督の『殉教血史 日本二十六聖人』に出演したのを最後に、2人とも退社を余儀なくされた[1][3]。澤蘭子はすでに同年4月に東京の松竹蒲田撮影所に移籍していたが、同社では、同年10月、鈴木傳明岡田時彦高田稔らが退社して独立、不二映画社設立の事態となっており、宝塚の経営者・小林一三の尽力もあって、岡も同社に入社する[1][2][3]。蒲田入社と同時に「岡 譲二」と改名した[1][2][3]。当時の所長、城戸四郎が好きな洋酒の「ジョニー・ウォーカー」をもじって命名したとのことである[1]。同社では、田中絹代初代水谷八重子らと次々に共演、サイレント映画からトーキーの時代に突入し、岡の美声が評判となり、数年のうちに蒲田のスターとなる[1][2]。とりわけ野村芳亭監督には重用されたが、1934年(昭和9年)8月15日に公開された『街の暴風』を最後に、同月23日、野村が急逝してしまう[1]。同年、同社を退社、協同映画を設立する[1][2][3]

協同映画を解散した1935年(昭和10年)、日活多摩川撮影所に入社する[1][2][3]。1936年(昭和11年)1月30日に公開された、入江プロダクション製作、阿部豊監督の『白衣の佳人』に出演した後、同月、初めての徴兵を受け、大日本帝国陸軍少尉として3週間入隊した[1]。原職に復帰して、同年4月8日公開、千葉泰樹監督の『恋は雨に濡れて』に出演、その後1937年(昭和12年)1月14日に公開された『検事とその妹』に主演したのを最後に、同作の監督の渡辺邦男とともに同社を退社、京都のゼーオー・スタヂオ、さらにはP.C.L.映画製作所へと同時に移籍して行く[1][3]


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