岡田裕介
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この項目では、映画プロデューサーについて記述しています。写真家の同名の人物については「岡田裕介 (写真家)」をご覧ください。

岡田優介」、「岡田悠介」、「岡田佑介」、あるいは「岡田祐介」とは別人です。

おかだ ゆうすけ
岡田 裕介
「美しい国づくり」企画会議委員
就任に際して公表された肖像写真
本名岡田 剛(おかだ つよし)[1][2]
生年月日 (1949-05-27) 1949年5月27日
没年月日 (2020-11-18) 2020年11月18日(71歳没)
出生地 京都府京都市[3]
死没地 東京都
ジャンル俳優
活動期間1969年 - 1986年

 受賞
日本アカデミー賞
第44回 協会栄誉賞[4]
その他の賞
第45回エランドール賞(2021年)
特別顕彰[5]

備考
東映代表取締役グループ会長[1]
ティ・ジョイ代表取締役社長
テレビ朝日ホールディングス社外取締役[3]
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岡田 裕介(おかだ ゆうすけ、本名?岡田 剛(おかだ つよし)[1][2]1949年5月27日 - 2020年11月18日[1])は、日本実業家映画プロデューサー東映代表取締役グループ会長[1][2]ティ・ジョイ代表取締役社長、テレビ朝日ホールディングス社外取締役[3]を務めた。1970年代には俳優として活躍したことでも知られる[1]
人物

京都市出身[3][6]。父は岡田茂(東映社長・会長を経て最晩年は名誉会長)。妹は高木美也子コメンテーター日本大学総合科学研究所教授)。声優ナレーター政宗一成はとこ[7]

子供の頃の遊び場は東映京都撮影所(以下、東映京都)で[6]、東映京都は子煩悩な役者が多く、片岡千恵蔵萬屋錦之介大友柳太郎伏見扇太郎らによく可愛がってもらった[6]。役者のお供でロケに行くことも多かったという[6]。1961年9月、父の東映東京撮影所所長による転勤で、京都の小学校の卒業間際に東京へ家族で引っ越す[6]。1964年2月、父がまた東映京都所長に転任したが[6]、京都に行くことを拒否し、以降は東京で育つ[6]千代田区立番町小学校を卒業。東京都立日比谷高等学校卒業後、浪人生活を経て、慶應義塾大学商学部商学科入学。大学1年の夏休みに[6]、遊びに行っていた京都のクラブで飲んでいた際、プロデューサーの逸見稔に横顔のよく似た石坂浩二と間違われてスカウトを受けた[6]。逸見と父親の岡田茂とはそれ以前から仕事上の付き合いがあり、父親の了解を得て俳優デビューした[6][8]

俳優としては主に東宝の青春映画で注目を浴びたが、東宝が自社製作を大幅縮小した頃よりプロデューサーに転向した。東映作品との関りは1970年の東映制作のテレビドラマ江戸川乱歩シリーズ 明智小五郎』(東京12チャンネル)に 小林少年役で出演したのが最初だが[6]、東宝の『赤頭巾ちゃん気をつけて』で主演が決まり、「『江戸川乱歩シリーズ 明智小五郎』を降ろして下さい」と頼んだら、泊懋テレビ部プロデューサーに「そんな馬鹿な話があるか!」と怒鳴られ、出演は続けた[6]。『赤頭巾ちゃん気をつけて』では、実際の一つ下の日比谷高生を演じた[6]。1978年の『宇宙からのメッセージ』から東映にプロデューサーとして関わり始め、『ガラスの中の少女』をプロデュースした後、東映に入社した[6]

父親が東映社長であったこともあるが、東宝俳優出身で東映トップにのぼりつめた珍しい経歴の主であり、プロデューサーとしても旧知の東宝監督を東映作品に招聘するなどしている。2002年に非創業家出身者としては珍しく父親の後を継いで東映社長に就任した。

黒澤明デビッド・リーンテオ・アンゲロプロスを「20世紀を代表する三大映画監督」に挙げ尊敬していた。アンゲロプロスの遺作となった『エレニの帰郷』は死後もしばらく日本公開の目途がついていなかったが、それを知った岡田は公開されることを強く希望し、2014年に自ら東映で配給している[9]
来歴
1949年5月27日
京都市に生まれる[3]
1968年
東京都立日比谷高等学校卒業。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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