岡田英弘
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岡田 英弘
(おかだ ひでひろ)人物情報
生誕 (1931-01-24) 1931年1月24日
日本東京市本郷区
死没 (2017-05-25) 2017年5月25日(86歳没)
配偶者宮脇淳子
学問
研究分野東洋史
研究機関東京外国語大学
常磐大学
学位文学士東京大学
公式サイト
岡田宮脇研究室
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岡田 英弘(おかだ ひでひろ、1931年(昭和6年)1月24日[1] - 2017年(平成29年)5月25日)は、日本東洋史学者。東京外国語大学名誉教授東洋文庫専任研究員。専攻は満洲史・モンゴル史であるが、中国・日本史論についての研究・著作もある。
経歴

1931年(昭和6年)、東京市本郷区(現・東京都文京区)曙町に生まれた[2]。戦時下の1943年旧制暁星中学校入学[3]1946年旧制成蹊高等学校尋常科へ転入[3]1947年、 旧制成蹊高等学校高等科理科乙類入学[3]1950年、旧制成蹊高等学校高等科理科乙類を卒業した[3]1953年東京大学文学部東洋史学科を卒業[3]。その後は同大学大学院に進み、1958年 東京大学大学院博士課程を満期退学した[3]

1959年から1961年まで、フルブライト奨学金を得てアメリカ合衆国シアトル市に所在するワシントン大学に留学。ニコラス・ポッペらの下で学んだ[4]1963年ドイツ連邦共和国ボン大学東洋研究所客員研究員となった[3]

1966年東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助教授に就任[3]1968年、ワシントン大学客員副教授となった( - 1971年[3]1973年東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所教授に昇進[3]1993年、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所を定年退官し、名誉教授となった。その後は1996年より 常磐大学国際学部教授として教鞭をとった(?2000年)。2002年、国際モンゴル学会名誉会員に選出された。

2017年5月25日、心不全のため死去[5]
受賞・栄典

1957年(昭和32年) - 『満文老档』の研究(共同研究)で第47回日本学士院賞受賞[3]。これは史上最年少(26歳)の受賞である。既存の中国正史に追従する中国史学の在り方に異を唱えたことで、日本の史学界では長年異端扱いされた[6]

1999年(平成11年) - インディアナ大学アルタイ学賞(通称PIACメダル)受賞

2008年(平成20年) - モンゴル国政府から北極星勲章(Altan Gadas odon)を受章

家族・親族

妻:妻は弟子でもある
宮脇淳子

父:父の岡田正弘は薬理学者で、東京医科歯科大学教授・学長、昭和大学歯学部長、日本学士院会員[2]

弟:弟の岡田茂弘は考古学者で、国立歴史民俗博物館教授・考古学研究部長をへて、東北歴史博物館館長[2]

研究内容・業績

中国史、古代日本史韓国史を専門とした。日本の中国史学会に異を唱えた研究、発言、著作がある。

歴史を理論として確立しているのはヘロドトスに始まるヨーロッパ史と司馬遷らに始まる中国史だけであり、両者の歴史観はまったく原理を異にしていること、そしてその他の地域の歴史は両者いずれかの歴史観による焼き直しであることを主張した。この観点から、両者を単に融合して世界史を記述するのではなく、両者を止揚・昇華させた新たな原理による世界史を構築する必要性を説き、世界史の始まりをモンゴル帝国によるヨーロッパ文明・中国文明の接触に求めている[7]

しばしば著作内で「三国時代漢族は激減し、ほぼ絶滅した」と主張している[8]

朝鮮半島について、歴史学的には「韓半島」と呼ぶのが正しいとしている。韓国起源説については、「もともと、日本は未開野蛮の国で、朝鮮がすべて、いいことを教えてやったんだと思いたい。極端な話が、日本の歌謡曲だって、実は朝鮮人発明して、それを有名な音楽家である古賀政男が朝鮮に来て、それを聞いて帰って、つまり盗んで、自分が作曲したと言って発表した。それが日本の歌謡曲の起こりだ、という解釈まである。これは国民的な信念なのだ。このようなことに至るまで、とにかく、自分たちがで、日本はだ、という信念が、韓国人アイデンティティーの基礎にあって、これを否定されたら、韓国人でいられない」と評している[9]

言論・評価

岡田は「私は“群れる”ことができない性質なのを痛感しつつ、学者人生を過ごしてきた。学界では孤立したが、それを苦痛にも、寂しいとも思ったことがない。


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