この項目では、俳優について説明しています。江戸時代の国学者については「岡田真澄 (国学者)」をご覧ください。
おかだ ますみ
岡田 眞澄
本名鑓田眞澄(やりた ますみ)
別名義岡田真澄[1]
生年月日 (1935-09-22) 1935年9月22日
没年月日 (2006-05-29) 2006年5月29日(70歳没)
出生地 フランス・ニース
死没地 日本・東京都
身長184cm
血液型O型
職業俳優
タレント
活動期間1955年 - 2006年
著名な家族
E・H・エリック(兄)
岡田眞善(長男)
岡田朋峰(長女)
主な作品
テレビドラマ
『心』
『眠れる森』
『トリック』シリーズ映画
『幕末太陽傳』
『嵐を呼ぶ男』〈1957年版〉
備考
1992年
第3回日本ジュエリーベストドレッサー賞男性部門
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岡田 眞澄(おかだ ますみ[1][2]、(1935年〈昭和10年〉9月22日[1] - 2006年〈平成18年〉5月29日)は、フランス生まれの日本の俳優・タレント。愛称は「ファンファン」。 日本人画家岡田穀
来歴・人物
生い立ち
父親はパリで暮らしたあと[4]、画家仲間のシャイム・スーティンを追って南仏カーニュ=シュル=メールに移り、1928年にインゲボルグと結婚後、ニース近くのラ・ゴード
に転居し、水彩画と交換に村民から施しを得るような貧しい生活を送った[5]。絵の具屋の店主の按摩をして絵具代を稼ぐような窮乏生活の中、創作活動を続け、1936年には岸田国士宛に絵を送って銀座の日動画廊で個展を開催した[6][7]。第二次世界大戦が始まった1939年に戦火を避けて一家で日本統治下の台湾に移住し台北で国民学校に通ったが[8][9]、日本帰国後、父親は特高警察に執拗に追われ、母親は耐えきれず日本を去った[10]。戦後は日本・東京都赤坂の引揚者住宅に落ち着き、オットー・セバルセン(Otto Sevaldsen)の名で横浜のインターナショナルスクール、セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジに学ぶ。 戦後まもなく、兄がトニー谷のスカウトで芸能界に入り、日劇ミュージックホールの舞台に立つようになったこともあって、岡田も谷の勧めでバレエのレッスンを受けたことがある。また、兄とともにミュージックホールの座長格だった泉和助に師事して修行する。その後、赤坂へ日活ニューフェイスの試験を受けに行った際に宝田明と知り合う。同じく第6期東宝ニューフェイスに合格[2]。東宝演劇研究所に入る。藤木悠・宝田明・佐原健二などと同期だったが、映画製作を再開した日活を選ぶ[1]。1955年公開の『初恋カナリア娘』でデビュー[11]。日本人離れした風貌から、外国人の役も多く演じた[2]。 1957年(昭和32年)に日本初の男性専門(後に女性も所属)のモデル・クラブであるSOSモデルエージェンシーを菅原文太ら総勢8名で結成する。日活退社後に渡欧した際ルキノ・ヴィスコンティ監督に『山猫』への出演を迫られるも断り、結果アラン・ドロンに配役が決まる(TV番組での本人談)。1961年には幼少期に暮らしたラ・ゴードとニースを訪問し、ニース市長ジャン・メドサンより市民章を受賞した[12]。 日活退社後はにんじんくらぶ・劇団欅を経て、以後、数々のミュージカルの舞台作品やテレビやショーといったバラエティ番組の司会者などで活躍し、幅広く芸能活動を行う。特に、『とんねるずのみなさんのおかげです』の一コーナー「仮面ノリダー」では、敵役「ファンファン大佐」を演じたことで、幅広い年齢層から人気を得た。出演が決まった際には、1980年代にCMに出演した縁で靴のマドラスに小道具のブーツを特注で製作してもらい、愛用したという逸話がある。 萩本欽一とは古くから親交があり、大映ドラマ『シークレット部隊』の第一回放送では萩本と悪役でゲスト共演[注釈 1]を果たし、後に始まった『欽ちゃんの仮装大賞』でも長年に渡りレギュラー審査員を務めた。 歌手としても、1980年、松任谷由実のアルバム『SURF&SNOW』収録曲「恋人と来ないで」にゲストボーカルとして参加、松任谷とのデュエットを披露した。中年以降は口髭を蓄えてヨシフ・スターリンに酷似した容貌となり、実際に演劇でスターリンを演じたことがある(『夢、クレムリンであなたと』・1991年初演)。 英語のみならずフランス語も堪能なため、ミス・インターナショナルでのホスト役を長らく務めた。司会業でもフェミニストぶりが様になるダンディーさが好評であった。1978年、第1回日本アカデミー賞の総合司会の大役を務めたり[1]、変わった所では1994年12月10日にパシフィコ横浜で開かれた新進党の結党大会の司会を務めたこともある。 「ファンファン」という愛称は、当時の人気俳優、ジェラール・フィリップの当たり役および愛称にあやかって名づけられたもの。『とんねるずのみなさんのおかげです』(フジテレビ系列)の「仮面ノリダー」のコーナーで「ファンファン大佐」というキャラクターに扮したことから、世間一般にも広まった。 2005年7月23日、食道癌が見つかり入院する。レギュラー出演していた中京テレビ(日本テレビ)のクイズ番組『サルヂエ』(「サルさん」として藤井隆と共に司会を担当)は、2005年7月11日放送分で降板した。 一時期快方に向かい芸能活動を再開、レギュラーだった同局系の『午後は○○おもいッきりテレビ』にも徐々に出演するようになった。しかし同年秋にリンパ節へのがんの転移が判明し、再び入院。2006年5月29日午前4時5分、食道癌のため東京都内の病院で亡くなる。70歳没。
デビュー
人気
晩年
親族
結婚は3度しており[13]、1960年にヨネヤマママコと結婚するが、翌年の1961年に離婚。1972年に藤田みどりと2度目の結婚。岡田眞善ら3人の息子をもうけるが、1994年9月5日に離婚。翌1995年に日本航空の客室乗務員だった26歳下の女性と3度目の結婚(婿養子となり「鑓田」に改姓[13])。1998年に岡田朋峰が誕生している。朋峰はのちに、父が総合司会を務めたミス・インターナショナルにおいて、2019年日本代表に選出され世界大会出場、任期終了後はスプラウト→セント・フォース所属のタレント・モデルとしてデビューを果たした[14]。
三男は舞台制作をしていたが2004年に自殺しており、眞善は父親が出演予定の舞台を直前になって拒否したために数億円の負債を抱えたのが原因と主張している[13][15]。
コペンハーゲンにある人魚姫の像の体部分のモデルを務めたエリーネ・エリクセンは伯母にあたる[16]。
出演作品
映画
初恋カナリヤ娘(1955年、日活) - 信吉
緑はるかに(1955年、日活)
銀座二十四帖(1955年、日活)
愉快な仲間 赤ちゃん特急(1956年、日活)
太陽の季節(1956年、日活) - バンドマスター
狂った果実(1956年、日活) - 平沢フランク
ジャズ・オン・パレード 1956年 裏町のお転婆娘 (1956年、日活) - 秀一
幕末太陽傳(1957年、日活) - 品川宿相模屋の若衆・喜助
嵐を呼ぶ男(1957年、日活) - 福島慎介
羽田発7時50分(1958年、日活) - テストドライバー 馬場
夜の牙(1958年、日活)
星は何でも知っている(1958年、日活)主演
夫婦百景(1958年、日活) - 倉田達夫
続 夫婦百景(1958年、日活) - 倉田達夫
完全な遊戯(1958年、日活) - 富田和
紅の翼(1958年、日活)
衣を脱いだ尼さん(1959年、日活)
暗黒の旅券(1959年、日活) - 勝根
二連銃の鉄(1959年、日活)
爆薬に火をつけろ(1959年、日活)
可愛い花(1959年、日活)
南海の狼火 (1960年、日活)
天下の快男児 突進太郎(1960年、東映) - 堀部茂
喜劇 とんかつ一代(1963年、東宝 / 東京映画) - マリウス
ひばり・チエミ・いづみ 三人よれば(1964年、東宝) - 石岡
夜明けのうた(1965年、日活) - 野上
日本一の男の中の男(1967年、東宝)
君は恋人(1967年、日活)
七人の野獣(1967年、日活)
七人の野獣 血の宣言 (1967年、日活)
吸血髑髏船(1968年、松竹)
燃える大陸(1968年、日活) - ケネス・マクベイン
嵐の勇者たち(1968年、日活)
緯度0大作戦(1969年、東宝) - ジュール・マッソン[1][2]
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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